ゴ・ディン・ジェム

ダラットのマダム・ヌーの別荘を訪ねて

昨年4月、ダラットに出張で出かけた際に時間を見つけてマダム・ヌーの別荘を訪ねてきました。長らく写真を撮っただけで放置していたのですが、撮影した写真とともに記事を掲載します。 マダム・ヌーとは Wikipediaによると「マダム・ゴ・ディン・ヌー(Madame Ngo Dinh Nhu、1924年4月15日 – 2011年4月24日)は、南ベトナムのゴ・ディン・ジエム大統領の実弟である大統領顧問ゴ・ディン・ヌーの妻。本名はチャン・レ・スアン(Trần Lệ Xuân、陳麗春)」とあります。 1960年代初頭、アメリカは北ベトナムに対抗するために南ベトナム政府樹立に暗躍しました。初代大統領に選ばれたのがゴ・ディン・ジエム(Ngô Ðình Diệm)でその実弟ゴ・ディン・ヌー(Ngô Ðình Nhu)の妻がマダム・ヌーでした。大統領のジエムが生涯独身であったため、マダム・ヌーが実質的にファーストレディーを務めたのです。 アメリカの力を背景に大統領になったゴ・ディン・ジエムですが、次第にケネディ政権に対して反抗的な政権運営を行うようになってきました。当時、政権に弾圧されていた仏教徒が焼身自殺をした際、マダム・ヌーは「アメリカから輸入したガソリンで焼身自殺するなんて矛盾しているわ。単なるバーベキューよ」と発言したことがアメリカの逆鱗に触れたのです。 1963年ゴ・ディン・ジエムとゴ・ディン・ヌーはクーデターのため殺害されます。クーデーターを指揮したのはゴ・ディン・ジエムを嫌ったCIAによるものだと言われています。当時、海外に滞在していたマダム・ヌーはそのまま国外追放となり、2011年イタリア・ローマの病院で死去しました。 ダラットのマダム・ヌーの別荘 マダム・ヌーの父親は弁護士でアメリカ大使を務めた人物です。この別荘はもともと父親が居住用に建てたものを建増ししていったもので、合計3つの別荘が敷地内にあります。広大な敷地に当時としては豪華な設備だったのですが、現ベトナム政府にとって好ましからざる人物の遺構ですから長年放置されて荒れ放題になっていました。最近になって修復が進み、一般にも公開されるようになったのですが、ここを訪れる人は稀なようで、日本人が来たというとわざわざ学芸員の方が出てきて邸内を案内してくれました。 別荘の入り口から撮影。丘を利用して別荘が建てられています。 Jade Palace(水晶宮)と名付けられた別荘のエントランス マダム・ヌーとその家族の写真が掲げられています。当時のタイムやニューズウィークの表紙を飾る程、マダム・ヌーとその娘はセレブとして世界中の注目の的でした。 面白いものを見つけました。当時北ベトナム政府内務省に勤務していたボー・グェン・ザップ(後の北ベトナム軍大将)がマダム・ヌーの夫ゴ・ディン・ヌーに対して国立図書館の勤務を任命した証書です。両者ともベトナム近現代史では歴史的な人物ですがこんなところに接点があったとは感慨深いです。 中庭から別荘を望む。 キタザワ産業海運という当時サイゴンにあった会社が、マダム・ヌーの別荘に日本庭園を建築する際に提出した見積書。 当時造園された日本庭園。手入れが行き届いていないので荒れていますが、学芸員によると以前はもっとひどかったそうです。 別荘の中から旧ダラット空港まで続いていると言われる地下通路の入り口。学芸員によると実際にトンネルに入って調べたそうですが、今は途中でふさがっていて、本当に空港までトンネルが続いていたかどうかはわからないとのことでした。 図書室。現在はミュージアムショップになっています。 当時としては大変珍しかった温水プール。ちょうど水を抜いて掃除中でした。標高の高いダラットなのでプールは温水にしたそうですが、ここに当時は各国の大使を招いて接待をしたそうです。 つわものどもの夢の跡 マダム・ヌーは生涯ベトナムに帰国したいと望んでいたそうですが、ベトナム政府はこれを認めませんでした。栄華を誇った別荘も今は寂れて、ベトナム人の記憶からも薄れていっています。5年前に異国の地でひとり亡くなっていった本人の気持ちはどのようなものだったのでしょうか。ゴ・ディン・ジエム大統領は日本政府ともつながりが強く、当時の日本政府もジエム政権を支持していました。根っからの民族主義者・反共主義者であり、もしベトナム戦争が北ベトナムの勝利に終わっていなかったら、現在のホー・チ・ミンのような立場にあったのかもしれません。今となっては当時の面影しか残っておらず、歴史の流れに忘れ去られようとしています。

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ベトナム戦記:開高健

[vc_row][vc_column][vc_column_text][/vc_column_text][ultimate_spacer height=”50″][vc_column_text] 銃音がとどろいた時、私の中の何かが粉砕された。 本書は1964年末から65年初頭にかけて、開高健がサイゴンから「週刊朝日」に毎週送稿したルポルタージュを、帰国した開高自身が大急ぎでまとめて緊急出版したものである。[/vc_column_text][/vc_column][/vc_row][vc_row][vc_column width=”1/1″][ultimate_spacer height=”20″][dt_quote type=”blockquote” font_size=”big” background=”plain”]銃音がとどろいた時、私の中の何かが粉砕された。膝が震え、暑い汗が全身を浸し、むかむかと吐き気がこみ上げた。たっていられなかったので、よろよろと歩いて足をたしかめた。 (中略) 彼は《英雄》にもなれば《殺人鬼》にもなる。それが《戦争》だ。しかし、この広場には、何かしら《絶対の悪》と呼んでよいものがひしめいていた。 [/dt_quote][ultimate_spacer height=”20″][vc_column_text]開高はベトコン少年の公開銃殺に立ち会った。20歳の私立高校生で地雷1kgと手榴弾を運搬中に逮捕されたものである。公開処刑が行われたのはベトナム鉄道公社のビル前、ベンタイン市場の左前あたりであった。[/vc_column_text][ultimate_spacer height=”20″][dt_quote type=”blockquote” font_size=”big” background=”plain”]サイゴンを陰謀と血だけの都だといいきってしまうのは誤りである。大半の市民は優しく、おだやかに、貧しく、いそがしくはたらいて暮らしている。[/dt_quote][ultimate_spacer height=”20″][vc_column_text]当時すでに開高は小説家として有名であったが、混沌としたベトナムとサイゴンの状況を週刊朝日の記者=ジャーナリストとして日本に伝えた。また作家としてベトナム庶民の中に深く分け入り、愛情を持ってベトナム人と接していた。[/vc_column_text][ultimate_spacer height=”20″][dt_quote type=”blockquote” font_size=”big” background=”plain”]「・・・・・ところで」 私が少尉に聞いた。 「グェン・フゥ・トゥは一般民衆の中で評判はいいのですか?」 「グェン・フゥ・トゥ?グェン・フゥ・トゥって、誰です?」 「ベトナムのナンバーワン指導者ですよ。議長です」 「はじめて聞きました。どういうつづりですか?」 「N…g…u…y…e…」 「N…g…u…y…e」 「民族解放戦線の評議会の議長です」 「民族解放戦線?民族解放戦線って何のことです?」 「ベトコンのことです。彼らは自分のことをそう呼んでいます」 「へへえ。それは知らなかったです。民族解放戦線、民族解放戦線・・・・・」 少尉は口の中でひくく、”ナショナル・リベレイション・フロント”、”ナショナル・リベレイション・フロント”とつぶやいた。それはたしかに、はじめてものを知った時に人がする口調であると思われた。トボけているとは思えなかった。 熱心な中学生みたいなチュウ少尉の小さくて黒い、すこしかしげた頭の影を眺めながら私は声が出せないくらい驚いていた。文盲の一兵卒ならいざ知らず、この少尉は砦ではいつも砂袋を積んだ作戦室で地図を相手に仕事をしているのである。隊のなかでは機敏で沈着な、反射の速い、なかなかたのもしい青年将校なのである。それが何年となく毎日毎日たたかいつづけている相手の指導者の名も知らず、つづりも知らず、正しい名称も知らないというのである。秋元キャパと私は思わず暗がりで顔を見合わせた。彼も低く唸ったきり声がでなくなっていた。 この戦争は政府側の負けだ。 ハッキリ、そうきまった。 寝たほうがよさそうだ!・・・・・[/dt_quote][ultimate_spacer height=”20″][vc_column_text]開高がこのルポを伝えたのは1964年末から1965年にかけてのことで、サイゴン陥落まで10年以上も前のことである。 しかし開高はすでにこの時点で南側の負けを予感していた。慧眼と言わざるを得ない。[/vc_column_text][ultimate_spacer height=”50″][vc_gmaps link=”#E-8_JTNDaWZyYW1lJTIwc3JjJTNEJTIyaHR0cHMlM0ElMkYlMkZ3d3cuZ29vZ2xlLmNvbSUyRm1hcHMlMkZkJTJGZW1iZWQlM0ZtaWQlM0R6WXRHaU9JcWNmWlEua0V4UzZ3VndFaWpZJTIyJTIwd2lkdGglM0QlMjI2NDAlMjIlMjBoZWlnaHQlM0QlMjI0ODAlMjIlM0UlM0MlMkZpZnJhbWUlM0U=”][ultimate_spacer height=”50″][/vc_column][/vc_row][vc_row][vc_column width=”1/1″][vc_column_text] 映像 [/vc_column_text][ultimate_spacer height=”20″][vc_column_text]開高健が見た世界 泥沼ベトナムから[dt_gap height=”20″ /][/vc_column_text][vc_video link=”https://www.youtube.com/watch?v=BnOfVT5975M”][ultimate_spacer height=”20″][vc_row_inner][vc_column_inner width=”1/2″][vc_column_text]Vietnam War: 502nd Battalion 101st Airborne Division at Ben Cat on Dec 9, 1965 US Army[dt_gap height=”20″ /][/vc_column_text][vc_video link=”https://www.youtube.com/watch?v=mXAW0Mq4M7s”][ultimate_spacer height=”20″][vc_column_text]1965年開高がBen Catを訪問した同じ年、12月のBen Cat Airborneの映像[/vc_column_text][/vc_column_inner][vc_column_inner width=”1/2″][vc_column_text] Vietnam War Documentary HD: Setting on Fire Vietnam Buddhist Monk ? [dt_gap height=”20″ /][/vc_column_text][vc_video link=”https://www.youtube.com/watch?v=LclBfYmyDMw”][ultimate_spacer height=”20″][vc_column_text]ゴ・ディン・ジェム政権と仏教徒の敵対がなぜ起こったのか?詳細に報じたドキュメンタリーである。[/vc_column_text][/vc_column_inner][/vc_row_inner][ultimate_spacer height=”50″][/vc_column][/vc_row][vc_row][vc_column width=”1/1″][vc_column_text] 参考リンク 開高健記念館:開高健とベトナム 年表と地図 [/vc_column_text][ultimate_spacer height=”20″][vc_basic_grid post_type=”post” max_items=”10″ style=”all” items_per_page=”10″ show_filter=”” element_width=”4″ gap=”30″ orderby=”date” order=”DESC” filter_source=”category” filter_style=”default” filter_align=”center” filter_color=”grey”

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