サイゴン陥落

米国の立場からサイゴン陥落を報じた比較的新しいドキュメンタリー>American Experience – Last Days in Vietnam – YouTube

サイゴン陥落の映像やドキュメンタリーは本当にたくさんあるのですが、2014年に米国で製作されたAmerican Experience – Last Days in Vietnamはなかなか見ごたえがありました。 NHKのBS世界のドキュメンタリーでも放映されたようで、日本語字幕版もあったのですが、残念ながらすでにYouTubeからは削除されています。 サイゴン陥落時にリチャード・アーミテージがビエンホアでベトナム人救出活動に従事していたこともはじめて知りました。 また戦艦から南シナ海にヘリコプターが投棄される映像は有名ですが、これはもともと艦上にあったものではなく、南ベトナムからベトナム人将校たちが逃げてきた南ベトナム政府軍のヘリを海上投棄していたのものだったのですね。 アメリカの立場からの映像ですが緊迫感があって最後まで一気に観てしまいました。

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米国教授がベトナムの伝説的スパイについて語る:US professor to talk untold stories of Vietnam’s legendary spy

  情報源: US professor to talk untold stories of Vietnam’s legendary spy 南ベトナム政府側のジャーナリストでありながら北ベトナムのスパイであったファム・スン・アン(Pham Xuan An 1927 – 2006)について、米国の歴史教授Larry Bermanが語った。Bermanは“Perfect spy X6 – the incredible double life of Pham Xuan An, Reuters, Time, New York Herald Tribune reporter & Vietnamese strategic intelligence general”の(完全なるスパイX6 – ファム・スン・アンの驚異的な二重生活。ロイター、タイムー、ニューヨークヘラルドトリビューンの記者であり北ベトナムの戦略情報将校だった男)の著者である。 ファム・スン・アンを題材にした映画化が米国で進んでいる模様です。 当時周辺にいたジャーナリストたちもファム・スン・アンがスパイであったことは薄々気づいていたようでしたが、サイゴン陥落までスパイを全うし、後年、ベトナム政府から英雄とされた男です。 スパイ活動の舞台は今はなきジブラルカフェ(ドンコイ通り/レロイ通り)でした。

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エデンモールとジブラルカフェ(現ユニオンスクエア)

[vc_row][vc_column width=”1/1″][vc_masonry_media_grid style=”all” items_per_page=”10″ element_width=”4″ gap=”5″ filter_size=”md” button_style=”rounded” button_color=”blue” button_size=”md” arrows_design=”none” arrows_position=”inside” arrows_color=”blue” paging_design=”radio_dots” paging_color=”grey” loop=”” autoplay=”-1″ item=”masonryMedia_Default” include=”463,459,457,453,454,455,458,460,461,452″][ultimate_spacer height=”50″][vc_column_text] エデンモールの思い出 ドンコイ通りとレロイ通りの交差点、オペラハウスとコンチネンタルホテルの前にエデンという建物が2010年まで建っていた。ホーチミン市の繁華街、日本でいえば銀座四丁目交差点のような場所に建つこのビルには、ショピングセンターや映画館等が入ったショッピングモールとアパートからなる複合ビルであった。 エデンは個人的に思い入れの深い建物で、実は1年あまりこのビルに住んでいたのである。アパート層の6階、壊れた観音開き式のエレベーターが修理もされずに放置され、毎日なんども息を切らせながら自宅アパートに昇ったものである。入り口階段は1階の仕立屋の奥にあったため、来客に行き順を説明するのも大変であった。 場所がら便利な場所だと思われがちだったが、正直、日常生活を送るには不便な場所であった。来客があってもバイクを止める場所もなく、コンチネンタルホテルで食事をするわけにもいかないため朝夕の食事も苦労した。 それでも古いフランス風の建物は天井が高く、広々としたフラットにはシーリングファンがあり、作り付けの家具もヨーロッパ風であった。跳ね上げ式のフランス窓を開けると、いまにも崩壊しそうなパティオがあり、道路に面していない分、意外に静かであった。目前には人民委員会の建物が美しく佇んでいた。 当時の家賃は500ドル。部屋の内容に比べると決して安くはなかったが、ここに住んでいるだけで特別な気分になれたものである。 この土地はデベロッパーのヴィンコムに売却され、我々も立ち退き反対運動の渦中に巻き込まれた。各階にベトナム国旗がはためき、住民が1階路上で静かに反対運動を行っていたのが懐かしい。当然、無駄な抵抗に終わってほどなくエデンは取り壊され、今の建物に変わったが、ヴィンコムAという名前もいつのまにかユニオンスクエアという名前に変更されたようである。[/vc_column_text][ultimate_spacer height=”50″][vc_single_image image=”466″ border_color=”grey” img_link_large=”” img_link_target=”_self” img_size=”800×483″][vc_column_text]エデンが建つ前はこの場所は薬局店であった。右側のコンチネンタルホテルは今とあまり変わらない [Photo nadal Saigon][/vc_column_text][ultimate_spacer height=”20″][vc_single_image image=”470″ border_color=”grey” img_link_large=”” img_link_target=”_self” img_size=”800×508″][vc_column_text]上の写真よりは年代が下がっているようだがまだエデンが建設される前の写真。ドンコイ通りは当時はRue Catinatと呼ばれていた。[Images de l’Indochine Francaise][/vc_column_text][ultimate_spacer height=”20″][vc_single_image image=”473″ border_color=”grey” img_link_large=”” img_link_target=”_self” img_size=”800×501″][ultimate_spacer height=”20″][vc_single_image image=”474″ border_color=”grey” img_link_large=”” img_link_target=”_self” img_size=”800×508″][ultimate_spacer height=”20″][vc_single_image image=”467″ border_color=”grey” img_link_large=”” img_link_target=”_self” img_size=”800×545″][vc_column_text]サイゴン陥落までエデンの前に建っていた米兵の銅像。[/vc_column_text][ultimate_spacer height=”20″][vc_single_image border_color=”grey” img_link_large=”” img_link_target=”_self” link=”http://i.imgur.com/d25juKM.jpg” image=”476″ img_size=”800 × 600″][vc_column_text]2010年、取り壊される直前のエデン。住民は窓からベトナム国旗を掲げて反対運動を行ったが、抵抗むなしく全戸退去となったしまった。 私が住んでいたのは右側アパートメント層の6階中庭側の一室であった。[/vc_column_text][ultimate_spacer height=”50″][vc_column_text] ジブラルカフェ [/vc_column_text][ultimate_spacer height=”20″][vc_column_text]エデンモールの1階はジブラルカフェ(Givral Cafe)という喫茶店が入居していた。 1950年創業のジブラルカフェは、場所がら観光客はもちろん従軍記者や作家が多く立ち寄る場所であった。グレアム・グリーンの「おとなしいアメリカ人」で愛人のフォンが通ったミルクホールはこの店がモデルになったと思われる。ベトコンスパイのファム・スン・アンもここでアメリカ人ジャーナリスト等と交友を深めた。 自宅が階上にあったこともあり、なんどもここで打ち合わせを行ったり、ひとりでコーヒーを飲んだりしたが、正直、古臭い店でサービスも悪く、向かいのタックスデパート上のハイランズコーヒーに行くことの方が多かった。 エデンモール取り壊し後、再びジブラルカフェは元の角地に入居したが、2、3年後には退去してしまった。客数が少なかったためか、賃料が高かったためかその理由はわからないが、ジブラルカフェもベトナムの急速な時代の流れに押し流されたのである。[/vc_column_text][ultimate_spacer height=”20″][vc_single_image border_color=”grey” img_link_large=”” img_link_target=”_self” link=”http://i.imgur.com/d25juKM.jpg” image=”480″ img_size=”800 × 374″][vc_column_text]エデンが取り壊しになる数年前のジブラルカフェ[/vc_column_text][ultimate_spacer height=”20″][vc_single_image border_color=”grey” img_link_large=”” img_link_target=”_self” link=”http://i.imgur.com/d25juKM.jpg” image=”481″ img_size=”800 × 443″][vc_column_text]ドンコイ通り側からジブラルカフェを望む[/vc_column_text][ultimate_spacer height=”20″][vc_single_image border_color=”grey” img_link_large=”” img_link_target=”_self” link=”http://i.imgur.com/d25juKM.jpg” image=”482″ img_size=”800 × 532″][vc_column_text]LIFEに掲載されたジブラルカフェ[/vc_column_text][ultimate_spacer height=”20″][vc_single_image

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ベトナム戦記:開高健

[vc_row][vc_column][vc_column_text][amazonjs asin=”402260607X” locale=”JP” title=”ベトナム戦記 (朝日文庫)”][/vc_column_text][ultimate_spacer height=”50″][vc_column_text] 銃音がとどろいた時、私の中の何かが粉砕された。 本書は1964年末から65年初頭にかけて、開高健がサイゴンから「週刊朝日」に毎週送稿したルポルタージュを、帰国した開高自身が大急ぎでまとめて緊急出版したものである。[/vc_column_text][/vc_column][/vc_row][vc_row][vc_column width=”1/1″][ultimate_spacer height=”20″][dt_quote type=”blockquote” font_size=”big” background=”plain”]銃音がとどろいた時、私の中の何かが粉砕された。膝が震え、暑い汗が全身を浸し、むかむかと吐き気がこみ上げた。たっていられなかったので、よろよろと歩いて足をたしかめた。 (中略) 彼は《英雄》にもなれば《殺人鬼》にもなる。それが《戦争》だ。しかし、この広場には、何かしら《絶対の悪》と呼んでよいものがひしめいていた。 [/dt_quote][ultimate_spacer height=”20″][vc_column_text]開高はベトコン少年の公開銃殺に立ち会った。20歳の私立高校生で地雷1kgと手榴弾を運搬中に逮捕されたものである。公開処刑が行われたのはベトナム鉄道公社のビル前、ベンタイン市場の左前あたりであった。[/vc_column_text][ultimate_spacer height=”20″][dt_quote type=”blockquote” font_size=”big” background=”plain”]サイゴンを陰謀と血だけの都だといいきってしまうのは誤りである。大半の市民は優しく、おだやかに、貧しく、いそがしくはたらいて暮らしている。[/dt_quote][ultimate_spacer height=”20″][vc_column_text]当時すでに開高は小説家として有名であったが、混沌としたベトナムとサイゴンの状況を週刊朝日の記者=ジャーナリストとして日本に伝えた。また作家としてベトナム庶民の中に深く分け入り、愛情を持ってベトナム人と接していた。[/vc_column_text][ultimate_spacer height=”20″][dt_quote type=”blockquote” font_size=”big” background=”plain”]「・・・・・ところで」 私が少尉に聞いた。 「グェン・フゥ・トゥは一般民衆の中で評判はいいのですか?」 「グェン・フゥ・トゥ?グェン・フゥ・トゥって、誰です?」 「ベトナムのナンバーワン指導者ですよ。議長です」 「はじめて聞きました。どういうつづりですか?」 「N…g…u…y…e…」 「N…g…u…y…e」 「民族解放戦線の評議会の議長です」 「民族解放戦線?民族解放戦線って何のことです?」 「ベトコンのことです。彼らは自分のことをそう呼んでいます」 「へへえ。それは知らなかったです。民族解放戦線、民族解放戦線・・・・・」 少尉は口の中でひくく、”ナショナル・リベレイション・フロント”、”ナショナル・リベレイション・フロント”とつぶやいた。それはたしかに、はじめてものを知った時に人がする口調であると思われた。トボけているとは思えなかった。 熱心な中学生みたいなチュウ少尉の小さくて黒い、すこしかしげた頭の影を眺めながら私は声が出せないくらい驚いていた。文盲の一兵卒ならいざ知らず、この少尉は砦ではいつも砂袋を積んだ作戦室で地図を相手に仕事をしているのである。隊のなかでは機敏で沈着な、反射の速い、なかなかたのもしい青年将校なのである。それが何年となく毎日毎日たたかいつづけている相手の指導者の名も知らず、つづりも知らず、正しい名称も知らないというのである。秋元キャパと私は思わず暗がりで顔を見合わせた。彼も低く唸ったきり声がでなくなっていた。 この戦争は政府側の負けだ。 ハッキリ、そうきまった。 寝たほうがよさそうだ!・・・・・[/dt_quote][ultimate_spacer height=”20″][vc_column_text]開高がこのルポを伝えたのは1964年末から1965年にかけてのことで、サイゴン陥落まで10年以上も前のことである。 しかし開高はすでにこの時点で南側の負けを予感していた。慧眼と言わざるを得ない。[/vc_column_text][ultimate_spacer height=”50″][vc_gmaps link=”#E-8_JTNDaWZyYW1lJTIwc3JjJTNEJTIyaHR0cHMlM0ElMkYlMkZ3d3cuZ29vZ2xlLmNvbSUyRm1hcHMlMkZkJTJGZW1iZWQlM0ZtaWQlM0R6WXRHaU9JcWNmWlEua0V4UzZ3VndFaWpZJTIyJTIwd2lkdGglM0QlMjI2NDAlMjIlMjBoZWlnaHQlM0QlMjI0ODAlMjIlM0UlM0MlMkZpZnJhbWUlM0U=”][ultimate_spacer height=”50″][/vc_column][/vc_row][vc_row][vc_column width=”1/1″][vc_column_text] 映像 [/vc_column_text][ultimate_spacer height=”20″][vc_column_text]開高健が見た世界 泥沼ベトナムから[dt_gap height=”20″ /][/vc_column_text][vc_video link=”https://www.youtube.com/watch?v=BnOfVT5975M”][ultimate_spacer height=”20″][vc_row_inner][vc_column_inner width=”1/2″][vc_column_text]Vietnam War: 502nd Battalion 101st Airborne Division at Ben Cat on Dec 9, 1965 US Army[dt_gap height=”20″ /][/vc_column_text][vc_video link=”https://www.youtube.com/watch?v=mXAW0Mq4M7s”][ultimate_spacer height=”20″][vc_column_text]1965年開高がBen Catを訪問した同じ年、12月のBen Cat Airborneの映像[/vc_column_text][/vc_column_inner][vc_column_inner width=”1/2″][vc_column_text] Vietnam War Documentary HD: Setting on Fire Vietnam Buddhist Monk ? [dt_gap height=”20″ /][/vc_column_text][vc_video link=”https://www.youtube.com/watch?v=LclBfYmyDMw”][ultimate_spacer height=”20″][vc_column_text]ゴ・ディン・ジェム政権と仏教徒の敵対がなぜ起こったのか?詳細に報じたドキュメンタリーである。[/vc_column_text][/vc_column_inner][/vc_row_inner][ultimate_spacer height=”50″][/vc_column][/vc_row][vc_row][vc_column width=”1/1″][vc_column_text] 参考リンク 開高健記念館:開高健とベトナム 年表と地図 [/vc_column_text][ultimate_spacer height=”20″][vc_basic_grid post_type=”post” max_items=”10″ style=”all” items_per_page=”10″ show_filter=”” element_width=”4″ gap=”30″ orderby=”date” order=”DESC”

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サイゴンのいちばん長い日(近藤紘一)

私は、私自身とこの国との最初の出会いとなった何年も前の朝のひとときを、妙に静かな気持ちで思い出しながら、戦火の連なる水田の彼方を長い間見つめた。絶え間ない銃声や砲音も耳に入らなかった。根元をさぐれば殺伐なはずの、黒煙や白煙自体も、このものうい大パノラマの中では、春がすみのように淡くおだやかなものにみえる。 その優しく穏やかな風景を舞台に、今、ひとつの世界の終焉の最後の幕が演じられている。次々と盛り上がる黒煙、白煙、バラバラに飛び交う数知れぬ黒い鳥 ー。人の世は儚く矮小だ。そして一国の最後とは何とグロテスクなものかー身を置く場所も時も忘れてそんなことを思った

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The Fall of Saigon (Discovery Channel)

[vc_row][vc_column][vc_column_text]1998年2月にDiscovery Channelから発売されたThe Fall of SaigonのYoutube映像です。アメリカ側から見たサイゴン陥落が克明にリポートされています。[/vc_column_text][/vc_column][/vc_row][vc_row][vc_column][vc_video link=”https://www.youtube.com/watch?v=73W2qexp_tk” title=”The Fall Of Saigon (Discovery Channel Part 1)”][vc_video link=”https://www.youtube.com/watch?v=q0aP2e0ODYQ” title=”The Fall Of Saigon (Discovery Channel Part 2)”][vc_video link=”https://www.youtube.com/watch?v=5RCVspcB3i8″ title=”The Fall Of Saigon (Discovery Channel Part 3)”][vc_video link=”https://www.youtube.com/watch?v=OQ-ep-teCfU” title=”The Fall Of Saigon (Discovery Channel Part 4)”][vc_video link=”https://www.youtube.com/watch?v=xyzk1pNv0Ug” title=”The Fall Of Saigon (Discovery Channel Part 5)”][vc_video link=”https://www.youtube.com/watch?v=-lfxmhck9_U” title=”The Fall Of Saigon (Discovery Channel Part 6)”][vc_video link=”https://www.youtube.com/watch?v=mYJyllwH-p8″ title=”The Fall Of Saigon (Discovery Channel Part 7)”][vc_video link=”https://www.youtube.com/watch?v=nvxGEl5yHpE” title=”The Fall Of Saigon (Discovery Channel Part 8)”][/vc_column][/vc_row]

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