ベトナム近現代史

ニューラルネットワークによる旧サイゴン写真のカラー化

ベトナム戦争の影響で膨大な写真が撮られた旧サイゴン。多くの写真は白黒写真のままで、1920年代の絵葉書はセピアカラーのままです、カラーでも見てみたいと思い、ニューラルネットワークを使ったAutomatic Image Colorizationでカラーに変換してみました。 PHARMACIE PRINCIPALE SOLIRÈNE 1865年、今のドンコイ通りとレ・ロイ通りの交差点にあった薬局で当時のサイゴン市長であったLourdeauがオーナーでした。その後、この場所はGivralカフェがあったEDENとなり、現在はUnion Squareになっています。オペラハウスからベンタン市場方向に向かって撮影したものです。 トゥーヨー通り(ドンコイ)で撮影されたカフェの様子。LIFEに掲載された結構有名な写真です。 子供を抱える若い母親 今はなきAIR VIETNAMの客室乗務員 1970年のレ・ロイ通りオペラハウス。 1948年のフランス植民地政府のプロパガンダ 1961年ルノーのタクシー こちらは近年に撮影されたルノーです。人工知能は車の特色をうまく捉えていると思います。 今はなきタックスデパートの前身GMC。イギリスやフランスから輸入された商品を販売していたそうです。サイゴンのど真ん中を牛車が歩いているのが時代を感じさせます。 最後は有名なサイゴンの処刑。人工知能はベトコンの服を赤系と判断していますが、実際はモノクロのチェック柄です。カラー映像が残っているので実物確認することができます。

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米国の立場からサイゴン陥落を報じた比較的新しいドキュメンタリー>American Experience – Last Days in Vietnam – YouTube

サイゴン陥落の映像やドキュメンタリーは本当にたくさんあるのですが、2014年に米国で製作されたAmerican Experience – Last Days in Vietnamはなかなか見ごたえがありました。 NHKのBS世界のドキュメンタリーでも放映されたようで、日本語字幕版もあったのですが、残念ながらすでにYouTubeからは削除されています。 サイゴン陥落時にリチャード・アーミテージがビエンホアでベトナム人救出活動に従事していたこともはじめて知りました。 また戦艦から南シナ海にヘリコプターが投棄される映像は有名ですが、これはもともと艦上にあったものではなく、南ベトナムからベトナム人将校たちが逃げてきた南ベトナム政府軍のヘリを海上投棄していたのものだったのですね。 アメリカの立場からの映像ですが緊迫感があって最後まで一気に観てしまいました。

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60年代後半から70年代にかけてのサイゴンロックシーンを解説したネット番組>(Loa) Sài Gòn’s Lost Rock N’ Roll Published: May… | Broadcasting Vietnam

情報源: (Loa) Sài Gòn’s Lost Rock N’ Roll Published: May… | Broadcasting Vietnam 1960年代後半から70年代にかけて、サイゴンではロックシーンが盛り上がっていました。この短いネットラジオ番組は当時のサイゴン・ロックの状況を要約して伝えています。番組の中では以下のアーティストが紹介されています。 CBC Band – Tinh Yêu Tuyệt Vời (The Greatest Love) Carol Kim – Cái Trâm Em Cài (Your Hair Clip) Thành Mai – Tóc Mai Sợi Vắn Sợi Dài (Long, Uneven Hair) CBC Band – Con Tim Và Nước Mắt (Heart And Tears) Lệ Thu – Sao Biển (Etoile Des Neiges) (Starfish) Minh Xuân & Phượng Hoàng – Mặt Trời Đen (Black Sun) Mai Lệ Huyền & Hùng Cường – Hờn Anh Giận Em (Jealousy) Phương Dung – Đố Ai (Riddles)

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【ベトナム近現代史】60年代〜70年代にかけて戦時下のサイゴン女性のファッションに惹かれるワケ

Pinterestに戦時下のサイゴンのファッションを集めた60’s & 70’s Fashion in Saigonという名前のボードを作りました。良かったら見てみてください。 当時、サイゴンは東洋のパリと呼ばれていたくらいファッションも進んでいて、フランスやアメリカの影響をかなり強く受けた街でした。しかし“Saigon was no rear area” (サイゴンは銃後ではない)で語られているように、毎月のようにクーデターや爆弾テロ、銃撃が起こり、決して安全な街ではありませんでした。 当然これらの女性もいつ殺られてもおかしくない戦時下の中で生きていた訳で、今の平和なベトナムとは比べものにならなかったに違いありません。 しかし暗い世相を吹き飛ばすような若々しさや溌剌とした感じ、目力の強さに思わず引き込まれてしまいます。これが日本の戦中だとこういう感じになってしまいます。 今でもベトナム人女性とつきあえば分かりますが、彼女たちは根っこのところで独立した強さを持っています。生活力が強くて人の目を気にしない、自分の信じた道に迷いがない、大雑把で細かなことにくよくよしないといった気質を持っています。ある面、古典的な日本女性の持つしとやかさとか対極的です。 さすがに今ではビキニでベスパに乗ってシメた鶏を手づかみで持って帰る女性はいませんが、本質的なところはこれとあまり変わっていないように思います。 ここに転載した写真の本人たちは、今では60代半ば〜70代の女性になっているに違いません。今はどこで何をしているのでしょうか。 60’s & 70’s Fashion in Saigon

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【ベトナム近現代史】10月15日に閉鎖予定のベンタン市場前のサークルが写っている古い写真を集めてみた。

今月15日で地下鉄工事のためベンタン市場前のサークルは通行禁止となります。いったん工事が始まってしまえば3年間程度入ることが出来ません。 周囲の交通状況も変わるでしょうし、風景も一変するに違いありません。 ベンタン市場がこの地にできてからほぼ100年立ちますが、この間に撮られた写真をネットから集めて来ました。 1960年代。かわいいルノーのタクシーが走っています。 1900年代初頭。馬車が走っています。 当時は馬車がバス代わりだったんですね。 レロイ通りをオペラハウス側に向かって写していますが、ほとんど建物らしい建物はありません。 時代がいっきに下って1960年代です。市場前に歩道橋が立っていました。これはいま設置して欲しいです。 Bata(靴)の広告。なぜかBataは元植民地に強いブランドです。 こちらは珍しい写真。ミトーに向かう列車が写っています。ハムギー通りから4区を抜けてミトーまで鉄道が走っていました。 別の角度から。左側がベンタン駅で駅舎が見えます。インフラとしては昔の方が進んでいましたね。

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【ベトナム近現代史】一枚の写真が世界を変えた。ピューリッツァー賞「サイゴンでの処刑」が撮影された現場を訪ねて(修正版)

先週、Facebookグループの情報を元に「サイゴンでの処刑」の撮影現場を訪ねてきましたが、その後、場所が誤っていたことが分かりました。実際にはLý Thái Tổ通りではなく、Ngô Gia Tự 通りであり、Lý Thái Tổからさほど遠くない場所でした。この写真が撮影された時代背景は前回のブログに書いたとおりですが、今回は当日撮影された他の写真と比較しながら検証します。 前回のブログはこちら 以下閲覧注意。死体の写真が表示されます。 当時の写真と現在のNgo Gia Tu通り Ngo Gia Tu通りにはこれまであまり用がなくて来たことがなかったのですが、今日ここを訪問して、ベトナムに来たころ、家具を買いにこの通りまで来たことを思い出しました。当時も今も、質が悪そうな家具が雑然と売られていて、ローカルな佇まいの場所です。 最初に来たのは197番地。グエン・ヴァン・レムが殺害される直前に写っている写真には197の文字が写っています。 ここに来てすぐ、この場所で間違いないと確信しました。隣の193-195番地のQuang – Trungという店は当時の写真でもQuang – Trungとなっていますし、この建物の2階ベランダにある特徴的な穴の空いた側壁は当時の建物と同じものであることを示しています。当時の写真では店は閉まっていますが、これは撮影されたのがテト(ベトナムの旧正月)の最中だったからでしょう。 こちらの写真は恐らく時系列的には一連の写真の最初に撮られたもので、写真の右側に斜め方向に向かう道路が見えます。この通りは現在のSư Vạn Hạnh通りです。角に欧米人らしい男性と左奥にはビデオカメラを持った兵士が立っています。恐らくこの処刑はあらかじめマスメディアを呼んで行われたものではないでしょうか。テト攻勢の最中、政府軍に逆らうとこうなるのだということを喧伝したかったのではないかと思います。 ほぼ同じ場所を反対の角度から撮った写真。連行する左のサングラスをかけた兵士と白い紙のようなものをもった右側の兵士は上の写真と同一人物です。右側の西洋人はジャーナリストでしょうか。行く手を阻もうとしているのを兵士が阻止しているようにも見えます。 前回のLy Tu Trong通りでの写真では道路の奥、角地に建っている7階建てのビルがなかったので、既に取り壊されたものかもしれないと言いましたが、ちゃんと残っていました。 当時はこの周辺はあまり高い木がなかったようですが、現在は街路樹に覆われています。建物の角はBia truyền thống Vườn Làiとして当時のテト攻勢を称える場所となっています。 このような戦功を称える記念碑はベトナム各地にありますが、当然、当時の敵は米国軍や韓国軍であり、ここで処刑されたベトコンのグエン・ヴァン・レムも賞賛の対象となっています。現在のベトナムと米国の関係を考えるとこのような記念碑は矛盾を感じますが、良くも悪くもしたたかで現実的なベトナム人気質が現れています。 そして問題の写真。この1枚の写真がその後のベトナムと米国の歴史を変えることとなりました。 撮影をしたエディ・アダムスは後年、この写真を撮ったことを悔み、「写真は真実ではあるが真実の半分も語っていない」と述べています。 殺害を実行したロアン将軍はその後ベトコンに命を狙われることとなり、サイゴン陥落後は米国に亡命しました。しかし彼の地でも安住することは出来ませんでした。米国政府の支援を得てピザレストランを経営していましたが、ある日、自分の店のトイレに「お前のやったことは忘れないぞ」という落書きが見つかり、その後、レストランも廃業して米国で癌のため亡くなっています。 最後のカットは頭から血を流して倒れたグエン・ヴァン・レムの写真。子供たちが遠巻きに見ています。5〜6歳の子供たちでしょうか。もしそうであれば現在は50代半ばになっていると思います。 日曜にもかかわらずNgo Gia Tu通りの商売熱心な家具屋は店を開け、あたりは家具を運ぶバイクや3輪車が行き交うばかりでした。約50年前にこの場で行われた衝撃的な事件を感じさせるものは何もありませんでしたが、ここは歴史を変えた現場であり、その後のベトナムに大きな影響を与えた事件であることは間違いありません。 穏やかな夏のサイゴンの街角で、今でも事件を見つめていた子供たちがヘムの影から飛び出してきそうな錯覚を感じました。

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【注意:場所が誤っています】ピューリッツァー賞「サイゴンでの処刑」が撮影された現場を訪ねてきた

2016年8月20日に以下の記事を作成しましたがFacebookグループの指摘により、取材した場所が誤っていることが明らかになりました。改めて正しい場所を特定し、8月28日に再取材をしております。 正しい場所での再取材結果はこちら   少し前にFacebookで新旧サイゴンを紹介するグループSaigon Cho Lon Then & Nowで話題になっていた「サイゴンでの処刑」の撮影場所を訪ねてきました。この写真が撮影された場所は長く不明のままだったようですが、当時の米兵らの証言により現在のLý Thái Tổ通りであることは確かのようです。 写真が撮影された時代背景 この衝撃的な写真が撮影された1968年2月1日はテト攻勢の最中であり、1月30日未明に蜂起した北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)は南ベトナム各地の政府施設・インフラ・米国施設・軍事拠点等に対して一斉攻撃を開始。サイゴンでは一時アメリカ大使館が解放戦線側に占拠され、南ベトナム大統領官邸も襲撃されました。 最終的には米軍と南ベトナム軍の反撃により各拠点は奪還されたものの、南北双方に大きな損害を与えることになりました。 2月1日テト攻勢の最中、解放戦線側の兵士グエン・ヴァン・レムは警察に捕えられ、連行される途中に警察総監グエン・ゴク・ロアンにより路上で射殺されます。 その模様はNBCにより映像配信され、同時に現場に居合わせたAP通信社のエディ・アダムスにより撮影されたのがこの有名な写真です。 テト攻勢の状況は世界中のメディアによって報道され、この事件がきっかけとなって米国内で反戦運動が盛り上がる機運となりました。リンドン・ジョンソン大統領は次期大統領選挙への出馬を取り止めることとなり、以後、米国はベトナムからの撤退を模索し始めます。 グエン・ゴク・ロアンとエディ・アダムズ グエン・ゴク・ロアンは1930年フエの生まれ。フランスの大学を3つ卒業したインテリであり、ベトナム共和国陸軍の少将として、当時は警察総監を務めていました。 解放戦線側の兵士レムは捕らえられる直前に起こった殺害事件の関係者と目されたようです。 南ベトナム側の発表によると、レムはその日に南ベトナムの警察官やその家族を殺害したベトコンの死の部隊の指揮官であり、レムが逮捕されたのは、34体もの縛られ射殺された警察官とその親族の遺体が放置された溝の付近であったという。しかもそれらの犠牲者には、ロアンが名付けた子6名など、ロアンの副官と親友の家族たちも含まれていたということだった。(Wikipedia) ロアンは個人所有のS&W M38を引き抜きその場でレムを処刑しました。法的手続きを踏まない私刑の映像とスチール写真は世界に衝撃を与え、ベトナム戦争の残虐性を世界に知らしめることとなりました。 ロアン将軍はその後ベトコン側に命を狙われ、銃撃戦で重傷を負うこともありましたが、死を逃れ、1975年サイゴン陥落とともに米国に亡命しました。米政府の支援を得てバージニア州でピザレストランを開業しましたが、写真の本人である過去が公にされると廃業。1998年バージニア州で死去しています。 https://www.youtube.com/watch?v=BGrsw6m9UOY 写真を撮影したAP通信社のエディ・アダムズは1933年米国ペンシルバニア生まれ。従軍記者として朝鮮戦争に参戦し、ベトナムでAP通信のカメラマンとして働いていました。 エディ・アダムスはこの写真で1969年度ピュリッツァー賞を受賞しましたが、後にこの写真を撮ったことを後悔するようになります。タイム誌で次のように語っています。 将軍はベトコンを殺した。私はカメラで将軍を殺した。スチール写真は世界で最も強力な武器だ。人々はそれを信じるが、たとえ手を加えてなどいなくても、写真は嘘をつく。写っているのは真実の半面だけだ。あの写真はこうは言わなかった。「あの暑い日のあの時あの場所で、あなたが将軍ならどうしただろう? 捕まえたのはいわゆる悪党で、奴は一人か二人か三人の米兵をぶっ殺した後だった。」 The general killed the Viet Cong; I killed the general with my camera. Still photographs are the most powerful weapon in the world. People believe them, but photographs do lie, even without manipulation. They are only half-truths. What the photograph didn’t say was, “What would you do if you were the general at that time and place on that hot day, and you caught the so-called bad guy after he blew away one, two or three American soldiers?” 写真の中の番地を手がかりに現場へ 殺害の直前、レムが南ベトナム軍兵士により連行される写真があります。写真の右隅にある看板に197という番地が小さく写っています。サイゴンの街路名の多くは1975年のサイゴン陥落前後で名前が変わっているのですが、Lý Thái Tổ通りは当時もLý

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🇻🇳ベトナム近現代史 : サイゴン市内のバス交通の中心にあったベンタンバスターミナルがもうすぐ移転する予定。これが見納めになる可能性があるので撮影をしてきました。

サイゴン市内のバス交通の中心にあったベンタンバスターミナルがもうすぐ移転する予定です。これが見納めになる可能性があるので撮影をしてきました。 バスターミナルの裏、クレーンが建っている場所はBitexcoが建設中の55階建てツインタワーで、リッツカールトンが開業予定です。 写真は1960年代のベンタン市場前。左側にバスターミナルと星マークはテキサコのガソリンスタンドが見えます。左奥にはまだサイゴン駅が残っており、右側には鉄道省のビル(現存)もあります。 テキサコマークのガソリンスタンドはPETRO LIMEXのスタンドとして残っていますが、開発後もここはガソリンスタンドになるのでしょうか。   今でも公共交通機関としてはバスが便利なのですが、この風景もいずれ見られなくなります。

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150年にわたるサイゴンの歴史を綴った写真集「Saigon – Reflections of 150 years’ Saigon」を衝動買い。

今日たまたま本屋に立ち寄って見つけたベトナム語の写真集です。総ページ数500ページを超える本で過去150年間にわたるサイゴンの変遷を綴ったものです。中をめくってみるとワクワクするような写真ばかり。550,000VNDとかなり値が張りましたが即購入しました。Amazonのないベトナムでは本は出会った時に買わないと、次にいつ買えるかわかりません。 グエンフエ通りが運河だった頃の写真。ちょうど右上が現在のSanwah Towerのあたりです。 サイゴン川で荷揚げされる飛行機。グレアム・グリーンの「おとなしいアメリカ人」ではマジェスティックホテルでカクテルを飲みながら飛行機が荷揚げされるのを見ていたという記述がありましたが、これで納得です。 1900年のCafe de la Musique。現在のビンコムBが建っている角です。右端にコンチネンタルホテルが少し見えています。 1960年代のベンタン市場前。レロイ通りには歩道橋がありその先は鉄道駅でした。現在は9月23日公園となっています。 植民地歩兵兵舎の正門前。現在のディン・ティン・ホアン通りから北方向に向かって撮ったものです。両脇の建物は人文社会大学の一部として現在も残っていますが、当時は道路はここで行き止まりで迂回していました。 エッフェルが設計したモン橋。現在は両脇が階段になっていて歩行者しか渡ることができませんが、当時は普通に車道となっていたことがわかります。対岸の洋風建築は現在のベトナム国家銀行でほぼ原型をとどめています。 – 全文ベトナム語なので苦労しますが、少しずつ辞書を片手に読んでみたいと思います。    

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サイゴン=ホーチミンの旧市街路名一覧表

ベトナムの市街路名は革命家や歴史的イベントにより命名されたものが多く、様々な都市で同名の道路名が存在しています。またフランス統治時代、ベトナム戦争時代、南北統一以降でも通りの名前が変化しています。そのため旧サイゴンを舞台にした小説やルポで書かれた道路名は現在のものと異なった名称となっています。

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ところでサイゴンってどこだ?古地図で探すサイゴン。

かなり前の話ですが、タンソンニャット国際空港からタクシーに乗った際、年配のドライバーが「サイゴンへ行くのか?」と聞いてきました。ええ、サイゴンまでと応えたのですが、タンソンニャットはどう考えてもホーチミン市内です。世界でも珍しいくらい都心部に立地する空港なのですが、この年配のドライバーにとってはタンソンニャットはサイゴンではないという意識のようでした。 このブログでは意識的にサイゴンという言葉を使っていますが漢字で書くと西貢、「ミス・サイゴン」「サイゴンビール」「ホテル・ニッコー・サイゴン」と様々な場所や物にサイゴンの名前は残っています。 現在のホーチミン市をGoogle Mapで検索すると、クチからカンザーまで広大な範囲がホーチミン市であることが分かります。もちろんこの名前はホー・チ・ミン師の名前から採ったもので、かつてはTo Do通り(トゥーヨー通り=自由通り)と呼ばれた通りが現在ではDong Khoi(ドンコイ通り=同起通り)と呼ばれているようなものです。ちなみにベトナム全国の道路名は革命に関連した人物名が通り名になっていて、どの街にも同じ名前の通りがあるので、Google Mapで検索するととんでもない場所が検索されたりします。解放後の名称はどうも堅苦しいものが多いので意識的にサイゴンと読んでいるのです。 また戦前からここに住んでいる南部の人々は親しみをこめてサイゴン、その他一般的にはホーチミンまたはホーチミン市と呼ばれるようです。 さてそのサイゴンですが、ドライバーの意識ではどこからがサイゴンだったのでしょうか?古い地図を探してみて現在の地図と比較してみました。 こちらの地図は1800年代半ばのサイゴンです。かなり不正確な地図のようで、サイゴン川がドンナイ川になっていますし、あきらかに独立宮周辺のサイズが大きすぎます。当時は現在のグエン・フエ通りは運河で、サンワ・タワーの敷地は教会でした。 こちらは時代が下って19世紀末から20世紀初頭のものと思われます。グエンフエ通りやハムギー通りも見えますが、ベンタン市場はまだ描かれていません。その割には北部方面、現在のダカオからタンディン地区にかけてまばらですが家屋の書き込みがあります。また現在のトンドゥクタン通りは社会人文大学のところで途切れていて政府系の敷地だったことが分かります。 さらに時代が下ってこれは1950年代、カラベルホテルが観光客用に配っていた地図だと思います。4区の一部が描かれています。北はほぼ現在のリー・チン・タン通りまでがサイゴンで、東はKênh Nhiêu Lộc 運河まで、南はサイゴン川までです。 西は現在のグェンバンクー通りまであたりがサイゴンの範囲だったようです。 この地図で面白いのはベンタン市場から北と西に向かって鉄道が伸びているのがわかることです。北方向へは現在の南北統一鉄道と同じ路線ですが、西方向はチョロンへ向かっています。当時の認識としてはサイゴンとチョロンは別の街だったようです。また南方向に向かって伸びる鉄道はメコンデルタに向かう鉄道でした。 総じて現在の1区と3区がサイゴンと呼ばれる街であったようです。

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TAXデパートの新旧写真を集めてみました:TAXデパート跡地で新複合施設を着工、40階建ての高層ビルに – 経済 – VIETJO 日刊ベトナムニュース

情報源: TAXデパート跡地で新複合施設を着工、40階建ての高層ビルに – 経済 – VIETJO 日刊ベトナムニュース ごく近所に住んでいたのでTaxデパートはよく行きました。屋上にあったHigh Lands Coffeeは落ち着ける場所でしたし、何度も通っているのに「お兄さんお土産」と声をかけられたのも良き思い出です。 ネットから拾ってきたTaxデパートの写真をいくつか掲載しておきます。 1920年代完成した頃のグラン・マガザン・シャルネ。1階通路の柱に面影があります。 ドームと時計台が特徴的でした。 1950年代にはドーム部分が取り払われて、4階が増築されているのがわかります。 おそらく1960年台後半。近藤紘一の産経新聞サイゴン支局もこのビルにありました。 上よりも少し後ですね。後ろにあったビルが取り壊され、DENONの看板がSONYに変わっています。 最近までこの形でした。2012年頃かと思います。

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ベトナム日系社会のルーツは娼婦であるからゆきさんであった?

まずこの統計を見てください。1898年のサイゴンの国別居住者の人口です。当時はフランスの植民地でしたからフランス人が2,323人と西洋人の中で一番多く、アジア人では安南人(ベトナム北中部)16,497人、中国人13,113人が目立ちます。当時、サイゴンの米市場を支配していたのは中国人でしたから、中国人の数が多いこともうなづけます。 日本人は98名、そのうち男性が32名、女性が51名、子供が15名となっています。女性の比率が多いと思いませんか? 実はその多くが「からゆきさん」だったのです。 からゆきさんとは Wikipediaによると からゆきさん(唐行きさん)とは、19世紀後半に、東アジア・東南アジアに渡って、娼婦として働いた日本人女性のことである。長崎県島原半島・熊本県天草諸島出身の女性が多く、その海外渡航には斡旋業者(女衒)が介在していた。「唐」は、漠然と「外国」を指す言葉である。 とあります。当時、島原・天草地方は大変貧しく、女衒が地方を回って漁村の娘たちに海外渡航を勧めたのです。 当時のサイゴンの絵葉書に載ったからゆきさんたち ベトナム日系社会の礎となった お金のためとはいえ、故郷を遠く離れて娼婦となった彼女たちの辛さや悲しさは想像を絶します。からゆきさんの中にはお金を貯めて旅館を経営したり飲食店を開く者もいたようです。またからゆきさんたちを目当てに日本の物産を販売したり、着物を販売する者たちも当地を訪問したり、在住する者もいました。 サイゴン陥落までベトナムの日系経済界では大南公司という会社が隆盛を誇っていました。その創業者の松下光廣もからゆきさんであった叔母がハイフォンに開業していた旅館を訪ねてベトナムにやってきたのです。今となっては歴史に埋もれてしまいましたが、100年以上も前にこの地に住んでいたからゆきさんたちに思いをはせると切ない気持ちがします。

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