ドンコイ通り

ところでサイゴンってどこだ?古地図で探すサイゴン。

かなり前の話ですが、タンソンニャット国際空港からタクシーに乗った際、年配のドライバーが「サイゴンへ行くのか?」と聞いてきました。ええ、サイゴンまでと応えたのですが、タンソンニャットはどう考えてもホーチミン市内です。世界でも珍しいくらい都心部に立地する空港なのですが、この年配のドライバーにとってはタンソンニャットはサイゴンではないという意識のようでした。 このブログでは意識的にサイゴンという言葉を使っていますが漢字で書くと西貢、「ミス・サイゴン」「サイゴンビール」「ホテル・ニッコー・サイゴン」と様々な場所や物にサイゴンの名前は残っています。 現在のホーチミン市をGoogle Mapで検索すると、クチからカンザーまで広大な範囲がホーチミン市であることが分かります。もちろんこの名前はホー・チ・ミン師の名前から採ったもので、かつてはTo Do通り(トゥーヨー通り=自由通り)と呼ばれた通りが現在ではDong Khoi(ドンコイ通り=同起通り)と呼ばれているようなものです。ちなみにベトナム全国の道路名は革命に関連した人物名が通り名になっていて、どの街にも同じ名前の通りがあるので、Google Mapで検索するととんでもない場所が検索されたりします。解放後の名称はどうも堅苦しいものが多いので意識的にサイゴンと読んでいるのです。 また戦前からここに住んでいる南部の人々は親しみをこめてサイゴン、その他一般的にはホーチミンまたはホーチミン市と呼ばれるようです。 さてそのサイゴンですが、ドライバーの意識ではどこからがサイゴンだったのでしょうか?古い地図を探してみて現在の地図と比較してみました。 こちらの地図は1800年代半ばのサイゴンです。かなり不正確な地図のようで、サイゴン川がドンナイ川になっていますし、あきらかに独立宮周辺のサイズが大きすぎます。当時は現在のグエン・フエ通りは運河で、サンワ・タワーの敷地は教会でした。 こちらは時代が下って19世紀末から20世紀初頭のものと思われます。グエンフエ通りやハムギー通りも見えますが、ベンタン市場はまだ描かれていません。その割には北部方面、現在のダカオからタンディン地区にかけてまばらですが家屋の書き込みがあります。また現在のトンドゥクタン通りは社会人文大学のところで途切れていて政府系の敷地だったことが分かります。 さらに時代が下ってこれは1950年代、カラベルホテルが観光客用に配っていた地図だと思います。4区の一部が描かれています。北はほぼ現在のリー・チン・タン通りまでがサイゴンで、東はKênh Nhiêu Lộc 運河まで、南はサイゴン川までです。 西は現在のグェンバンクー通りまであたりがサイゴンの範囲だったようです。 この地図で面白いのはベンタン市場から北と西に向かって鉄道が伸びているのがわかることです。北方向へは現在の南北統一鉄道と同じ路線ですが、西方向はチョロンへ向かっています。当時の認識としてはサイゴンとチョロンは別の街だったようです。また南方向に向かって伸びる鉄道はメコンデルタに向かう鉄道でした。 総じて現在の1区と3区がサイゴンと呼ばれる街であったようです。

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米国教授がベトナムの伝説的スパイについて語る:US professor to talk untold stories of Vietnam’s legendary spy

  情報源: US professor to talk untold stories of Vietnam’s legendary spy 南ベトナム政府側のジャーナリストでありながら北ベトナムのスパイであったファム・スン・アン(Pham Xuan An 1927 – 2006)について、米国の歴史教授Larry Bermanが語った。Bermanは“Perfect spy X6 – the incredible double life of Pham Xuan An, Reuters, Time, New York Herald Tribune reporter & Vietnamese strategic intelligence general”の(完全なるスパイX6 – ファム・スン・アンの驚異的な二重生活。ロイター、タイムー、ニューヨークヘラルドトリビューンの記者であり北ベトナムの戦略情報将校だった男)の著者である。 ファム・スン・アンを題材にした映画化が米国で進んでいる模様です。 当時周辺にいたジャーナリストたちもファム・スン・アンがスパイであったことは薄々気づいていたようでしたが、サイゴン陥落までスパイを全うし、後年、ベトナム政府から英雄とされた男です。 スパイ活動の舞台は今はなきジブラルカフェ(ドンコイ通り/レロイ通り)でした。

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グレアム・グリーンのおとなしいアメリカ人

ベトナム グレアム・グリーンは1950年から1955年にわたってベトナムを訪問し、その滞在期間はのべ2年間にわたった。ライフやサンデー・タイムズに記者として送稿するいっぽう、サイゴン(現在のホーチミン市)のコンチネンタルホテルを拠点に執筆活動を行い、1955年に発表したのが本書「おとなしいアメリカ人」である。

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エデンモールとジブラルカフェ(現ユニオンスクエア)

[vc_row][vc_column width=”1/1″][vc_masonry_media_grid style=”all” items_per_page=”10″ element_width=”4″ gap=”5″ filter_size=”md” button_style=”rounded” button_color=”blue” button_size=”md” arrows_design=”none” arrows_position=”inside” arrows_color=”blue” paging_design=”radio_dots” paging_color=”grey” loop=”” autoplay=”-1″ item=”masonryMedia_Default” include=”463,459,457,453,454,455,458,460,461,452″][ultimate_spacer height=”50″][vc_column_text] エデンモールの思い出 ドンコイ通りとレロイ通りの交差点、オペラハウスとコンチネンタルホテルの前にエデンという建物が2010年まで建っていた。ホーチミン市の繁華街、日本でいえば銀座四丁目交差点のような場所に建つこのビルには、ショピングセンターや映画館等が入ったショッピングモールとアパートからなる複合ビルであった。 エデンは個人的に思い入れの深い建物で、実は1年あまりこのビルに住んでいたのである。アパート層の6階、壊れた観音開き式のエレベーターが修理もされずに放置され、毎日なんども息を切らせながら自宅アパートに昇ったものである。入り口階段は1階の仕立屋の奥にあったため、来客に行き順を説明するのも大変であった。 場所がら便利な場所だと思われがちだったが、正直、日常生活を送るには不便な場所であった。来客があってもバイクを止める場所もなく、コンチネンタルホテルで食事をするわけにもいかないため朝夕の食事も苦労した。 それでも古いフランス風の建物は天井が高く、広々としたフラットにはシーリングファンがあり、作り付けの家具もヨーロッパ風であった。跳ね上げ式のフランス窓を開けると、いまにも崩壊しそうなパティオがあり、道路に面していない分、意外に静かであった。目前には人民委員会の建物が美しく佇んでいた。 当時の家賃は500ドル。部屋の内容に比べると決して安くはなかったが、ここに住んでいるだけで特別な気分になれたものである。 この土地はデベロッパーのヴィンコムに売却され、我々も立ち退き反対運動の渦中に巻き込まれた。各階にベトナム国旗がはためき、住民が1階路上で静かに反対運動を行っていたのが懐かしい。当然、無駄な抵抗に終わってほどなくエデンは取り壊され、今の建物に変わったが、ヴィンコムAという名前もいつのまにかユニオンスクエアという名前に変更されたようである。[/vc_column_text][ultimate_spacer height=”50″][vc_single_image image=”466″ border_color=”grey” img_link_large=”” img_link_target=”_self” img_size=”800×483″][vc_column_text]エデンが建つ前はこの場所は薬局店であった。右側のコンチネンタルホテルは今とあまり変わらない [Photo nadal Saigon][/vc_column_text][ultimate_spacer height=”20″][vc_single_image image=”470″ border_color=”grey” img_link_large=”” img_link_target=”_self” img_size=”800×508″][vc_column_text]上の写真よりは年代が下がっているようだがまだエデンが建設される前の写真。ドンコイ通りは当時はRue Catinatと呼ばれていた。[Images de l’Indochine Francaise][/vc_column_text][ultimate_spacer height=”20″][vc_single_image image=”473″ border_color=”grey” img_link_large=”” img_link_target=”_self” img_size=”800×501″][ultimate_spacer height=”20″][vc_single_image image=”474″ border_color=”grey” img_link_large=”” img_link_target=”_self” img_size=”800×508″][ultimate_spacer height=”20″][vc_single_image image=”467″ border_color=”grey” img_link_large=”” img_link_target=”_self” img_size=”800×545″][vc_column_text]サイゴン陥落までエデンの前に建っていた米兵の銅像。[/vc_column_text][ultimate_spacer height=”20″][vc_single_image border_color=”grey” img_link_large=”” img_link_target=”_self” link=”http://i.imgur.com/d25juKM.jpg” image=”476″ img_size=”800 × 600″][vc_column_text]2010年、取り壊される直前のエデン。住民は窓からベトナム国旗を掲げて反対運動を行ったが、抵抗むなしく全戸退去となったしまった。 私が住んでいたのは右側アパートメント層の6階中庭側の一室であった。[/vc_column_text][ultimate_spacer height=”50″][vc_column_text] ジブラルカフェ [/vc_column_text][ultimate_spacer height=”20″][vc_column_text]エデンモールの1階はジブラルカフェ(Givral Cafe)という喫茶店が入居していた。 1950年創業のジブラルカフェは、場所がら観光客はもちろん従軍記者や作家が多く立ち寄る場所であった。グレアム・グリーンの「おとなしいアメリカ人」で愛人のフォンが通ったミルクホールはこの店がモデルになったと思われる。ベトコンスパイのファム・スン・アンもここでアメリカ人ジャーナリスト等と交友を深めた。 自宅が階上にあったこともあり、なんどもここで打ち合わせを行ったり、ひとりでコーヒーを飲んだりしたが、正直、古臭い店でサービスも悪く、向かいのタックスデパート上のハイランズコーヒーに行くことの方が多かった。 エデンモール取り壊し後、再びジブラルカフェは元の角地に入居したが、2、3年後には退去してしまった。客数が少なかったためか、賃料が高かったためかその理由はわからないが、ジブラルカフェもベトナムの急速な時代の流れに押し流されたのである。[/vc_column_text][ultimate_spacer height=”20″][vc_single_image border_color=”grey” img_link_large=”” img_link_target=”_self” link=”http://i.imgur.com/d25juKM.jpg” image=”480″ img_size=”800 × 374″][vc_column_text]エデンが取り壊しになる数年前のジブラルカフェ[/vc_column_text][ultimate_spacer height=”20″][vc_single_image border_color=”grey” img_link_large=”” img_link_target=”_self” link=”http://i.imgur.com/d25juKM.jpg” image=”481″ img_size=”800 × 443″][vc_column_text]ドンコイ通り側からジブラルカフェを望む[/vc_column_text][ultimate_spacer height=”20″][vc_single_image border_color=”grey” img_link_large=”” img_link_target=”_self” link=”http://i.imgur.com/d25juKM.jpg” image=”482″ img_size=”800 × 532″][vc_column_text]LIFEに掲載されたジブラルカフェ[/vc_column_text][ultimate_spacer height=”20″][vc_single_image

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