ベトナム近現代史

ニューラルネットワークによる旧サイゴン写真のカラー化

ベトナム戦争の影響で膨大な写真が撮られた旧サイゴン。多くの写真は白黒写真のままで、1920年代の絵葉書はセピアカラーのままです、カラーでも見てみたいと思い、ニューラルネットワークを使ったAutomatic Image Colorizationでカラーに変換してみました。 PHARMACIE PRINCIPALE SOLIRÈNE 1865年、今のドンコイ通りとレ・ロイ通りの交差点にあった薬局で当時のサイゴン市長であったLourdeauがオーナーでした。その後、この場所はGivralカフェがあったEDENとなり、現在はUnion Squareになっています。オペラハウスからベンタン市場方向に向かって撮影したものです。 トゥーヨー通り(ドンコイ)で撮影されたカフェの様子。LIFEに掲載された結構有名な写真です。 子供を抱える若い母親 今はなきAIR VIETNAMの客室乗務員 1970年のレ・ロイ通りオペラハウス。 1948年のフランス植民地政府のプロパガンダ 1961年ルノーのタクシー こちらは近年に撮影されたルノーです。人工知能は車の特色をうまく捉えていると思います。 今はなきタックスデパートの前身GMC。イギリスやフランスから輸入された商品を販売していたそうです。サイゴンのど真ん中を牛車が歩いているのが時代を感じさせます。 最後は有名なサイゴンの処刑。人工知能はベトコンの服を赤系と判断していますが、実際はモノクロのチェック柄です。カラー映像が残っているので実物確認することができます。

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米国の立場からサイゴン陥落を報じた比較的新しいドキュメンタリー>American Experience – Last Days in Vietnam – YouTube

サイゴン陥落の映像やドキュメンタリーは本当にたくさんあるのですが、2014年に米国で製作されたAmerican Experience – Last Days in Vietnamはなかなか見ごたえがありました。 NHKのBS世界のドキュメンタリーでも放映されたようで、日本語字幕版もあったのですが、残念ながらすでにYouTubeからは削除されています。 サイゴン陥落時にリチャード・アーミテージがビエンホアでベトナム人救出活動に従事していたこともはじめて知りました。 また戦艦から南シナ海にヘリコプターが投棄される映像は有名ですが、これはもともと艦上にあったものではなく、南ベトナムからベトナム人将校たちが逃げてきた南ベトナム政府軍のヘリを海上投棄していたのものだったのですね。 アメリカの立場からの映像ですが緊迫感があって最後まで一気に観てしまいました。

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60年代後半から70年代にかけてのサイゴンロックシーンを解説したネット番組>(Loa) Sài Gòn’s Lost Rock N’ Roll Published: May… | Broadcasting Vietnam

情報源: (Loa) Sài Gòn’s Lost Rock N’ Roll Published: May… | Broadcasting Vietnam 1960年代後半から70年代にかけて、サイゴンではロックシーンが盛り上がっていました。この短いネットラジオ番組は当時のサイゴン・ロックの状況を要約して伝えています。番組の中では以下のアーティストが紹介されています。 CBC Band – Tinh Yêu Tuyệt Vời (The Greatest Love) Carol Kim – Cái Trâm Em Cài (Your Hair Clip) Thành Mai – Tóc Mai Sợi Vắn Sợi Dài (Long, Uneven Hair) CBC Band – Con Tim Và Nước Mắt (Heart And Tears) Lệ Thu – Sao Biển (Etoile Des Neiges) (Starfish) Minh Xuân & Phượng Hoàng – Mặt Trời Đen (Black Sun) Mai Lệ Huyền & Hùng Cường – Hờn Anh Giận Em (Jealousy) Phương Dung – Đố Ai (Riddles)

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【ベトナム近現代史】60年代〜70年代にかけて戦時下のサイゴン女性のファッションに惹かれるワケ

Pinterestに戦時下のサイゴンのファッションを集めた60’s & 70’s Fashion in Saigonという名前のボードを作りました。良かったら見てみてください。 当時、サイゴンは東洋のパリと呼ばれていたくらいファッションも進んでいて、フランスやアメリカの影響をかなり強く受けた街でした。しかし“Saigon was no rear area” (サイゴンは銃後ではない)で語られているように、毎月のようにクーデターや爆弾テロ、銃撃が起こり、決して安全な街ではありませんでした。 当然これらの女性もいつ殺られてもおかしくない戦時下の中で生きていた訳で、今の平和なベトナムとは比べものにならなかったに違いありません。 しかし暗い世相を吹き飛ばすような若々しさや溌剌とした感じ、目力の強さに思わず引き込まれてしまいます。これが日本の戦中だとこういう感じになってしまいます。 今でもベトナム人女性とつきあえば分かりますが、彼女たちは根っこのところで独立した強さを持っています。生活力が強くて人の目を気にしない、自分の信じた道に迷いがない、大雑把で細かなことにくよくよしないといった気質を持っています。ある面、古典的な日本女性の持つしとやかさとか対極的です。 さすがに今ではビキニでベスパに乗ってシメた鶏を手づかみで持って帰る女性はいませんが、本質的なところはこれとあまり変わっていないように思います。 ここに転載した写真の本人たちは、今では60代半ば〜70代の女性になっているに違いません。今はどこで何をしているのでしょうか。 60’s & 70’s Fashion in Saigon

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【ベトナム近現代史】10月15日に閉鎖予定のベンタン市場前のサークルが写っている古い写真を集めてみた。

今月15日で地下鉄工事のためベンタン市場前のサークルは通行禁止となります。いったん工事が始まってしまえば3年間程度入ることが出来ません。 周囲の交通状況も変わるでしょうし、風景も一変するに違いありません。 ベンタン市場がこの地にできてからほぼ100年立ちますが、この間に撮られた写真をネットから集めて来ました。 1960年代。かわいいルノーのタクシーが走っています。 1900年代初頭。馬車が走っています。 当時は馬車がバス代わりだったんですね。 レロイ通りをオペラハウス側に向かって写していますが、ほとんど建物らしい建物はありません。 時代がいっきに下って1960年代です。市場前に歩道橋が立っていました。これはいま設置して欲しいです。 Bata(靴)の広告。なぜかBataは元植民地に強いブランドです。 こちらは珍しい写真。ミトーに向かう列車が写っています。ハムギー通りから4区を抜けてミトーまで鉄道が走っていました。 別の角度から。左側がベンタン駅で駅舎が見えます。インフラとしては昔の方が進んでいましたね。

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【ベトナム近現代史】一枚の写真が世界を変えた。ピューリッツァー賞「サイゴンでの処刑」が撮影された現場を訪ねて(修正版)

先週、Facebookグループの情報を元に「サイゴンでの処刑」の撮影現場を訪ねてきましたが、その後、場所が誤っていたことが分かりました。実際にはLý Thái Tổ通りではなく、Ngô Gia Tự 通りであり、Lý Thái Tổからさほど遠くない場所でした。この写真が撮影された時代背景は前回のブログに書いたとおりですが、今回は当日撮影された他の写真と比較しながら検証します。 前回のブログはこちら 以下閲覧注意。死体の写真が表示されます。 当時の写真と現在のNgo Gia Tu通り Ngo Gia Tu通りにはこれまであまり用がなくて来たことがなかったのですが、今日ここを訪問して、ベトナムに来たころ、家具を買いにこの通りまで来たことを思い出しました。当時も今も、質が悪そうな家具が雑然と売られていて、ローカルな佇まいの場所です。 最初に来たのは197番地。グエン・ヴァン・レムが殺害される直前に写っている写真には197の文字が写っています。 ここに来てすぐ、この場所で間違いないと確信しました。隣の193-195番地のQuang – Trungという店は当時の写真でもQuang – Trungとなっていますし、この建物の2階ベランダにある特徴的な穴の空いた側壁は当時の建物と同じものであることを示しています。当時の写真では店は閉まっていますが、これは撮影されたのがテト(ベトナムの旧正月)の最中だったからでしょう。 こちらの写真は恐らく時系列的には一連の写真の最初に撮られたもので、写真の右側に斜め方向に向かう道路が見えます。この通りは現在のSư Vạn Hạnh通りです。角に欧米人らしい男性と左奥にはビデオカメラを持った兵士が立っています。恐らくこの処刑はあらかじめマスメディアを呼んで行われたものではないでしょうか。テト攻勢の最中、政府軍に逆らうとこうなるのだということを喧伝したかったのではないかと思います。 ほぼ同じ場所を反対の角度から撮った写真。連行する左のサングラスをかけた兵士と白い紙のようなものをもった右側の兵士は上の写真と同一人物です。右側の西洋人はジャーナリストでしょうか。行く手を阻もうとしているのを兵士が阻止しているようにも見えます。 前回のLy Tu Trong通りでの写真では道路の奥、角地に建っている7階建てのビルがなかったので、既に取り壊されたものかもしれないと言いましたが、ちゃんと残っていました。 当時はこの周辺はあまり高い木がなかったようですが、現在は街路樹に覆われています。建物の角はBia truyền thống Vườn Làiとして当時のテト攻勢を称える場所となっています。 このような戦功を称える記念碑はベトナム各地にありますが、当然、当時の敵は米国軍や韓国軍であり、ここで処刑されたベトコンのグエン・ヴァン・レムも賞賛の対象となっています。現在のベトナムと米国の関係を考えるとこのような記念碑は矛盾を感じますが、良くも悪くもしたたかで現実的なベトナム人気質が現れています。 そして問題の写真。この1枚の写真がその後のベトナムと米国の歴史を変えることとなりました。 撮影をしたエディ・アダムスは後年、この写真を撮ったことを悔み、「写真は真実ではあるが真実の半分も語っていない」と述べています。 殺害を実行したロアン将軍はその後ベトコンに命を狙われることとなり、サイゴン陥落後は米国に亡命しました。しかし彼の地でも安住することは出来ませんでした。米国政府の支援を得てピザレストランを経営していましたが、ある日、自分の店のトイレに「お前のやったことは忘れないぞ」という落書きが見つかり、その後、レストランも廃業して米国で癌のため亡くなっています。 最後のカットは頭から血を流して倒れたグエン・ヴァン・レムの写真。子供たちが遠巻きに見ています。5〜6歳の子供たちでしょうか。もしそうであれば現在は50代半ばになっていると思います。 日曜にもかかわらずNgo Gia Tu通りの商売熱心な家具屋は店を開け、あたりは家具を運ぶバイクや3輪車が行き交うばかりでした。約50年前にこの場で行われた衝撃的な事件を感じさせるものは何もありませんでしたが、ここは歴史を変えた現場であり、その後のベトナムに大きな影響を与えた事件であることは間違いありません。 穏やかな夏のサイゴンの街角で、今でも事件を見つめていた子供たちがヘムの影から飛び出してきそうな錯覚を感じました。

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【注意:場所が誤っています】ピューリッツァー賞「サイゴンでの処刑」が撮影された現場を訪ねてきた

2016年8月20日に以下の記事を作成しましたがFacebookグループの指摘により、取材した場所が誤っていることが明らかになりました。改めて正しい場所を特定し、8月28日に再取材をしております。 正しい場所での再取材結果はこちら   少し前にFacebookで新旧サイゴンを紹介するグループSaigon Cho Lon Then & Nowで話題になっていた「サイゴンでの処刑」の撮影場所を訪ねてきました。この写真が撮影された場所は長く不明のままだったようですが、当時の米兵らの証言により現在のLý Thái Tổ通りであることは確かのようです。 写真が撮影された時代背景 この衝撃的な写真が撮影された1968年2月1日はテト攻勢の最中であり、1月30日未明に蜂起した北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)は南ベトナム各地の政府施設・インフラ・米国施設・軍事拠点等に対して一斉攻撃を開始。サイゴンでは一時アメリカ大使館が解放戦線側に占拠され、南ベトナム大統領官邸も襲撃されました。 最終的には米軍と南ベトナム軍の反撃により各拠点は奪還されたものの、南北双方に大きな損害を与えることになりました。 2月1日テト攻勢の最中、解放戦線側の兵士グエン・ヴァン・レムは警察に捕えられ、連行される途中に警察総監グエン・ゴク・ロアンにより路上で射殺されます。 その模様はNBCにより映像配信され、同時に現場に居合わせたAP通信社のエディ・アダムスにより撮影されたのがこの有名な写真です。 テト攻勢の状況は世界中のメディアによって報道され、この事件がきっかけとなって米国内で反戦運動が盛り上がる機運となりました。リンドン・ジョンソン大統領は次期大統領選挙への出馬を取り止めることとなり、以後、米国はベトナムからの撤退を模索し始めます。 グエン・ゴク・ロアンとエディ・アダムズ グエン・ゴク・ロアンは1930年フエの生まれ。フランスの大学を3つ卒業したインテリであり、ベトナム共和国陸軍の少将として、当時は警察総監を務めていました。 解放戦線側の兵士レムは捕らえられる直前に起こった殺害事件の関係者と目されたようです。 南ベトナム側の発表によると、レムはその日に南ベトナムの警察官やその家族を殺害したベトコンの死の部隊の指揮官であり、レムが逮捕されたのは、34体もの縛られ射殺された警察官とその親族の遺体が放置された溝の付近であったという。しかもそれらの犠牲者には、ロアンが名付けた子6名など、ロアンの副官と親友の家族たちも含まれていたということだった。(Wikipedia) ロアンは個人所有のS&W M38を引き抜きその場でレムを処刑しました。法的手続きを踏まない私刑の映像とスチール写真は世界に衝撃を与え、ベトナム戦争の残虐性を世界に知らしめることとなりました。 ロアン将軍はその後ベトコン側に命を狙われ、銃撃戦で重傷を負うこともありましたが、死を逃れ、1975年サイゴン陥落とともに米国に亡命しました。米政府の支援を得てバージニア州でピザレストランを開業しましたが、写真の本人である過去が公にされると廃業。1998年バージニア州で死去しています。 https://www.youtube.com/watch?v=BGrsw6m9UOY 写真を撮影したAP通信社のエディ・アダムズは1933年米国ペンシルバニア生まれ。従軍記者として朝鮮戦争に参戦し、ベトナムでAP通信のカメラマンとして働いていました。 エディ・アダムスはこの写真で1969年度ピュリッツァー賞を受賞しましたが、後にこの写真を撮ったことを後悔するようになります。タイム誌で次のように語っています。 将軍はベトコンを殺した。私はカメラで将軍を殺した。スチール写真は世界で最も強力な武器だ。人々はそれを信じるが、たとえ手を加えてなどいなくても、写真は嘘をつく。写っているのは真実の半面だけだ。あの写真はこうは言わなかった。「あの暑い日のあの時あの場所で、あなたが将軍ならどうしただろう? 捕まえたのはいわゆる悪党で、奴は一人か二人か三人の米兵をぶっ殺した後だった。」 The general killed the Viet Cong; I killed the general with my camera. Still photographs are the most powerful weapon in the world. People believe them, but photographs do lie, even without manipulation. They are only half-truths. What the photograph didn’t say was, “What would you do if you were the general at that time and place on that hot day, and you caught the so-called bad guy after he blew away one, two or three American soldiers?” 写真の中の番地を手がかりに現場へ 殺害の直前、レムが南ベトナム軍兵士により連行される写真があります。写真の右隅にある看板に197という番地が小さく写っています。サイゴンの街路名の多くは1975年のサイゴン陥落前後で名前が変わっているのですが、Lý Thái Tổ通りは当時もLý

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🇻🇳ベトナム近現代史 : サイゴン市内のバス交通の中心にあったベンタンバスターミナルがもうすぐ移転する予定。これが見納めになる可能性があるので撮影をしてきました。

サイゴン市内のバス交通の中心にあったベンタンバスターミナルがもうすぐ移転する予定です。これが見納めになる可能性があるので撮影をしてきました。 バスターミナルの裏、クレーンが建っている場所はBitexcoが建設中の55階建てツインタワーで、リッツカールトンが開業予定です。 写真は1960年代のベンタン市場前。左側にバスターミナルと星マークはテキサコのガソリンスタンドが見えます。左奥にはまだサイゴン駅が残っており、右側には鉄道省のビル(現存)もあります。 テキサコマークのガソリンスタンドはPETRO LIMEXのスタンドとして残っていますが、開発後もここはガソリンスタンドになるのでしょうか。   今でも公共交通機関としてはバスが便利なのですが、この風景もいずれ見られなくなります。

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150年にわたるサイゴンの歴史を綴った写真集「Saigon – Reflections of 150 years’ Saigon」を衝動買い。

今日たまたま本屋に立ち寄って見つけたベトナム語の写真集です。総ページ数500ページを超える本で過去150年間にわたるサイゴンの変遷を綴ったものです。中をめくってみるとワクワクするような写真ばかり。550,000VNDとかなり値が張りましたが即購入しました。Amazonのないベトナムでは本は出会った時に買わないと、次にいつ買えるかわかりません。 グエンフエ通りが運河だった頃の写真。ちょうど右上が現在のSanwah Towerのあたりです。 サイゴン川で荷揚げされる飛行機。グレアム・グリーンの「おとなしいアメリカ人」ではマジェスティックホテルでカクテルを飲みながら飛行機が荷揚げされるのを見ていたという記述がありましたが、これで納得です。 1900年のCafe de la Musique。現在のビンコムBが建っている角です。右端にコンチネンタルホテルが少し見えています。 1960年代のベンタン市場前。レロイ通りには歩道橋がありその先は鉄道駅でした。現在は9月23日公園となっています。 植民地歩兵兵舎の正門前。現在のディン・ティン・ホアン通りから北方向に向かって撮ったものです。両脇の建物は人文社会大学の一部として現在も残っていますが、当時は道路はここで行き止まりで迂回していました。 エッフェルが設計したモン橋。現在は両脇が階段になっていて歩行者しか渡ることができませんが、当時は普通に車道となっていたことがわかります。対岸の洋風建築は現在のベトナム国家銀行でほぼ原型をとどめています。 – 全文ベトナム語なので苦労しますが、少しずつ辞書を片手に読んでみたいと思います。    

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サイゴン=ホーチミンの旧市街路名一覧表

[vc_row][vc_column][vc_column_text]ベトナムの市街路名は革命家や歴史的イベントにより命名されたものが多く、様々な都市で同名の道路名が存在しています。またフランス統治時代、ベトナム戦争時代、南北統一以降でも通りの名前が変化しています。そのため旧サイゴンを舞台にした小説やルポで書かれた道路名は現在のものと異なった名称となっています。 以下に1955年(フランス統治時代)、1963年(ベトナム戦争時代)、現在(南北統一以降)の道路目の対比表を掲載します。 本記事は以前ベトナム近現代史ブログに掲載したものを再掲載したものです 現在名(1975) 現在の日本語名 South Vietnam(1963) French Colonial(1955) Ly Tu Trong リィトゥチョン Gia Long Rue de la Grandiere Dong Khoi ドンコイ Tu Do Street Rue Catinat Mac Thi Buoi マックティブイ Mac Thi Buoi Rue Adrian Ngo Duc Ke ゴーダックケー Ngo Duc Ke Rue Vannier Pasteur パスター Pasteur Rue Pellerin Pham Ngoc Thach ファンゴックタック Duy Tan Rue Garcerie Hai Ba Trung ハイバチュン Hai Ba Trung Rue Paul Blanchy Mac Dinh Chi マックディンチ Mac Dinh Chi Rue de Massiges Dien Bien Phu ディエンビエンフー Phan Than Gian Legrand de la Liraye Dinh Tien Hoang ディンティンホアン Dinh Tien Hoang Boulevard Albert Nguyen Binh Kiem グェンビンキム Nguyen Binh Kiem Rue Rousseau Ton Duc Thang

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ところでサイゴンってどこだ?古地図で探すサイゴン。

かなり前の話ですが、タンソンニャット国際空港からタクシーに乗った際、年配のドライバーが「サイゴンへ行くのか?」と聞いてきました。ええ、サイゴンまでと応えたのですが、タンソンニャットはどう考えてもホーチミン市内です。世界でも珍しいくらい都心部に立地する空港なのですが、この年配のドライバーにとってはタンソンニャットはサイゴンではないという意識のようでした。 このブログでは意識的にサイゴンという言葉を使っていますが漢字で書くと西貢、「ミス・サイゴン」「サイゴンビール」「ホテル・ニッコー・サイゴン」と様々な場所や物にサイゴンの名前は残っています。 現在のホーチミン市をGoogle Mapで検索すると、クチからカンザーまで広大な範囲がホーチミン市であることが分かります。もちろんこの名前はホー・チ・ミン師の名前から採ったもので、かつてはTo Do通り(トゥーヨー通り=自由通り)と呼ばれた通りが現在ではDong Khoi(ドンコイ通り=同起通り)と呼ばれているようなものです。ちなみにベトナム全国の道路名は革命に関連した人物名が通り名になっていて、どの街にも同じ名前の通りがあるので、Google Mapで検索するととんでもない場所が検索されたりします。解放後の名称はどうも堅苦しいものが多いので意識的にサイゴンと読んでいるのです。 また戦前からここに住んでいる南部の人々は親しみをこめてサイゴン、その他一般的にはホーチミンまたはホーチミン市と呼ばれるようです。 さてそのサイゴンですが、ドライバーの意識ではどこからがサイゴンだったのでしょうか?古い地図を探してみて現在の地図と比較してみました。 こちらの地図は1800年代半ばのサイゴンです。かなり不正確な地図のようで、サイゴン川がドンナイ川になっていますし、あきらかに独立宮周辺のサイズが大きすぎます。当時は現在のグエン・フエ通りは運河で、サンワ・タワーの敷地は教会でした。 こちらは時代が下って19世紀末から20世紀初頭のものと思われます。グエンフエ通りやハムギー通りも見えますが、ベンタン市場はまだ描かれていません。その割には北部方面、現在のダカオからタンディン地区にかけてまばらですが家屋の書き込みがあります。また現在のトンドゥクタン通りは社会人文大学のところで途切れていて政府系の敷地だったことが分かります。 さらに時代が下ってこれは1950年代、カラベルホテルが観光客用に配っていた地図だと思います。4区の一部が描かれています。北はほぼ現在のリー・チン・タン通りまでがサイゴンで、東はKênh Nhiêu Lộc 運河まで、南はサイゴン川までです。 西は現在のグェンバンクー通りまであたりがサイゴンの範囲だったようです。 この地図で面白いのはベンタン市場から北と西に向かって鉄道が伸びているのがわかることです。北方向へは現在の南北統一鉄道と同じ路線ですが、西方向はチョロンへ向かっています。当時の認識としてはサイゴンとチョロンは別の街だったようです。また南方向に向かって伸びる鉄道はメコンデルタに向かう鉄道でした。 総じて現在の1区と3区がサイゴンと呼ばれる街であったようです。

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TAXデパートの新旧写真を集めてみました:TAXデパート跡地で新複合施設を着工、40階建ての高層ビルに – 経済 – VIETJO 日刊ベトナムニュース

情報源: TAXデパート跡地で新複合施設を着工、40階建ての高層ビルに – 経済 – VIETJO 日刊ベトナムニュース ごく近所に住んでいたのでTaxデパートはよく行きました。屋上にあったHigh Lands Coffeeは落ち着ける場所でしたし、何度も通っているのに「お兄さんお土産」と声をかけられたのも良き思い出です。 ネットから拾ってきたTaxデパートの写真をいくつか掲載しておきます。 1920年代完成した頃のグラン・マガザン・シャルネ。1階通路の柱に面影があります。 ドームと時計台が特徴的でした。 1950年代にはドーム部分が取り払われて、4階が増築されているのがわかります。 おそらく1960年台後半。近藤紘一の産経新聞サイゴン支局もこのビルにありました。 上よりも少し後ですね。後ろにあったビルが取り壊され、DENONの看板がSONYに変わっています。 最近までこの形でした。2012年頃かと思います。

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ベトナム日系社会のルーツは娼婦であるからゆきさんであった?

まずこの統計を見てください。1898年のサイゴンの国別居住者の人口です。当時はフランスの植民地でしたからフランス人が2,323人と西洋人の中で一番多く、アジア人では安南人(ベトナム北中部)16,497人、中国人13,113人が目立ちます。当時、サイゴンの米市場を支配していたのは中国人でしたから、中国人の数が多いこともうなづけます。 日本人は98名、そのうち男性が32名、女性が51名、子供が15名となっています。女性の比率が多いと思いませんか? 実はその多くが「からゆきさん」だったのです。 からゆきさんとは Wikipediaによると からゆきさん(唐行きさん)とは、19世紀後半に、東アジア・東南アジアに渡って、娼婦として働いた日本人女性のことである。長崎県島原半島・熊本県天草諸島出身の女性が多く、その海外渡航には斡旋業者(女衒)が介在していた。「唐」は、漠然と「外国」を指す言葉である。 とあります。当時、島原・天草地方は大変貧しく、女衒が地方を回って漁村の娘たちに海外渡航を勧めたのです。 当時のサイゴンの絵葉書に載ったからゆきさんたち ベトナム日系社会の礎となった お金のためとはいえ、故郷を遠く離れて娼婦となった彼女たちの辛さや悲しさは想像を絶します。からゆきさんの中にはお金を貯めて旅館を経営したり飲食店を開く者もいたようです。またからゆきさんたちを目当てに日本の物産を販売したり、着物を販売する者たちも当地を訪問したり、在住する者もいました。 サイゴン陥落までベトナムの日系経済界では大南公司という会社が隆盛を誇っていました。その創業者の松下光廣もからゆきさんであった叔母がハイフォンに開業していた旅館を訪ねてベトナムにやってきたのです。今となっては歴史に埋もれてしまいましたが、100年以上も前にこの地に住んでいたからゆきさんたちに思いをはせると切ない気持ちがします。

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ダラットのマダム・ヌーの別荘を訪ねて

昨年4月、ダラットに出張で出かけた際に時間を見つけてマダム・ヌーの別荘を訪ねてきました。長らく写真を撮っただけで放置していたのですが、撮影した写真とともに記事を掲載します。 マダム・ヌーとは Wikipediaによると「マダム・ゴ・ディン・ヌー(Madame Ngo Dinh Nhu、1924年4月15日 – 2011年4月24日)は、南ベトナムのゴ・ディン・ジエム大統領の実弟である大統領顧問ゴ・ディン・ヌーの妻。本名はチャン・レ・スアン(Trần Lệ Xuân、陳麗春)」とあります。 1960年代初頭、アメリカは北ベトナムに対抗するために南ベトナム政府樹立に暗躍しました。初代大統領に選ばれたのがゴ・ディン・ジエム(Ngô Ðình Diệm)でその実弟ゴ・ディン・ヌー(Ngô Ðình Nhu)の妻がマダム・ヌーでした。大統領のジエムが生涯独身であったため、マダム・ヌーが実質的にファーストレディーを務めたのです。 アメリカの力を背景に大統領になったゴ・ディン・ジエムですが、次第にケネディ政権に対して反抗的な政権運営を行うようになってきました。当時、政権に弾圧されていた仏教徒が焼身自殺をした際、マダム・ヌーは「アメリカから輸入したガソリンで焼身自殺するなんて矛盾しているわ。単なるバーベキューよ」と発言したことがアメリカの逆鱗に触れたのです。 1963年ゴ・ディン・ジエムとゴ・ディン・ヌーはクーデターのため殺害されます。クーデーターを指揮したのはゴ・ディン・ジエムを嫌ったCIAによるものだと言われています。当時、海外に滞在していたマダム・ヌーはそのまま国外追放となり、2011年イタリア・ローマの病院で死去しました。 ダラットのマダム・ヌーの別荘 マダム・ヌーの父親は弁護士でアメリカ大使を務めた人物です。この別荘はもともと父親が居住用に建てたものを建増ししていったもので、合計3つの別荘が敷地内にあります。広大な敷地に当時としては豪華な設備だったのですが、現ベトナム政府にとって好ましからざる人物の遺構ですから長年放置されて荒れ放題になっていました。最近になって修復が進み、一般にも公開されるようになったのですが、ここを訪れる人は稀なようで、日本人が来たというとわざわざ学芸員の方が出てきて邸内を案内してくれました。 別荘の入り口から撮影。丘を利用して別荘が建てられています。 Jade Palace(水晶宮)と名付けられた別荘のエントランス マダム・ヌーとその家族の写真が掲げられています。当時のタイムやニューズウィークの表紙を飾る程、マダム・ヌーとその娘はセレブとして世界中の注目の的でした。 面白いものを見つけました。当時北ベトナム政府内務省に勤務していたボー・グェン・ザップ(後の北ベトナム軍大将)がマダム・ヌーの夫ゴ・ディン・ヌーに対して国立図書館の勤務を任命した証書です。両者ともベトナム近現代史では歴史的な人物ですがこんなところに接点があったとは感慨深いです。 中庭から別荘を望む。 キタザワ産業海運という当時サイゴンにあった会社が、マダム・ヌーの別荘に日本庭園を建築する際に提出した見積書。 当時造園された日本庭園。手入れが行き届いていないので荒れていますが、学芸員によると以前はもっとひどかったそうです。 別荘の中から旧ダラット空港まで続いていると言われる地下通路の入り口。学芸員によると実際にトンネルに入って調べたそうですが、今は途中でふさがっていて、本当に空港までトンネルが続いていたかどうかはわからないとのことでした。 図書室。現在はミュージアムショップになっています。 当時としては大変珍しかった温水プール。ちょうど水を抜いて掃除中でした。標高の高いダラットなのでプールは温水にしたそうですが、ここに当時は各国の大使を招いて接待をしたそうです。 つわものどもの夢の跡 マダム・ヌーは生涯ベトナムに帰国したいと望んでいたそうですが、ベトナム政府はこれを認めませんでした。栄華を誇った別荘も今は寂れて、ベトナム人の記憶からも薄れていっています。5年前に異国の地でひとり亡くなっていった本人の気持ちはどのようなものだったのでしょうか。ゴ・ディン・ジエム大統領は日本政府ともつながりが強く、当時の日本政府もジエム政権を支持していました。根っからの民族主義者・反共主義者であり、もしベトナム戦争が北ベトナムの勝利に終わっていなかったら、現在のホー・チ・ミンのような立場にあったのかもしれません。今となっては当時の面影しか残っておらず、歴史の流れに忘れ去られようとしています。

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ベトナム近現代史カテゴリーに旧ブログを移転しました!

以前作成をして放置状態にあったベトナム近現代史サイトを更新停止し、このブログのベトナム近現代史カテゴリーに記事を移転しました。前のブログのショートコードが使えないため一部レイアウトが崩れている部分があるので時間があるときに修正をします。 ベトナム戦争時代、サイゴンは多くのジャーナリストが駐在していたため、60年代から75年にかけて数多くの映像や写真、書物が残っています。急速に都市化が進んでいるものの、気をつけてみればサイゴン市内には当時の建物がまだ残っています。サイゴン在住の歴史家Tim DolingさんがFacebook上で運営しているSaïgon Chợ Lớn Then & Nowには当時の写真と現在の写真を同時掲載したFacebookグループがあってとても興味深いものになっています。 このカテゴリーでも歩いて訪問した歴史的なサイゴンを紹介していきたいと思います。

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Saigoneerに掲載された1960年代のニャチャンの写真がクール![Photos] 1960s Nha Trang Was the Essence of Cool – Saigoneer

情報源: [Photos] 1960s Nha Trang Was the Essence of Cool – Saigoneer 1960年代のニャチャンといえばベトナム戦争の真っ只中で、もろに米軍とアメリカ人の影響下にあった時代です。   4、5年前の写真だと言われてもわからないほど当時はモダンだったことがわかります。(サイゴンも同じですが・・・) 詳細はSaigoneerへ

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グレアム・グリーンのおとなしいアメリカ人

[vc_row][vc_column][vc_single_image image=”14633″ img_size=”full”][vc_column_text] 1950年代初頭のベトナム グレアム・グリーンは1950年から1955年にわたってベトナムを訪問し、その滞在期間はのべ2年間にわたった。ライフやサンデー・タイムズに記者として送稿するいっぽう、サイゴン(現在のホーチミン市)のコンチネンタルホテルを拠点に執筆活動を行い、1955年に発表したのが本書「おとなしいアメリカ人」である。序文にも書かれている通り本書はフィクションであるが、登場人物や場所、小説の背景となる政治状況は実在する人物や場所をモチーフにしたことが伺える。 本書は1951年9月から1952年2月のパイルの死、その後の2週間にわたる物語である。 1950年代前半のベトナムは、日本の仏印進駐によりいったんは退却をしたフランスが、ふたたび植民地での権益拡大を目論んでベトナム全土に手を広げようとしていた時代であった。しかしホーチミン率いるベトミンは中国共産党の後方支援のもとゲリラ戦を展開し、徐々にフランス軍を追い詰めつつあった。 1952年といえばディエン・ビエン・フーの戦いに先立つこと3年、依然ベトナムはフランス統治下であったが、フランスの戦争であった第一次インドシナ戦争は実質的にはアメリカの莫大な軍事支援に支えられた戦争であった。民族独立を掲げるホーチミン率いるベトミン、植民地政策を維持しようとするフランス、アジアの共産化を食い止めようとするアメリカ、大国の力を背景に権益を獲得しようとする第三勢力、軍事化を進めるカオダイ教団やホアハオ団など新興宗教・・・・・様々な政治パワーが三つ巴となってベトナムは混沌たる状態であった。 グリーンは第三の男 (1950年)や情事の終り (1951年)などですでに世界的な名声を得ていたが、5年間に渡るベトナム訪問と滞在を経て戦争の世紀であった20世紀中盤の状況を鮮やかに描いてみせた。 文学作品たらしめる対立軸の提示 「おとなしいアメリカ人」は政治小説でありスパイ小説である。本書の冒頭で暗殺をされるおとなしいアメリカ人「パイル」のモデルはCIAのランスデール大佐であったとされている。また本書を書いたことによりグリーンは米国への入国を拒否されており、当時は政治的なメッセージ色が強いと受け止められたようである。(参考:毎日新聞1956年7月12日) 実際、ファトディエムでの戦闘シーン、カオダイ教会から帰宅中に襲われたタイニンの要塞シーン、サイゴン・ラムソンスクエアでの爆破シーンなどスペクタクルシーンが随所に見られるが、これら物語の進行が本書の縦軸であるとすると、横軸を構成するのは登場人物が綾なす様々な対立軸の提示である。 主人公のファウラーは初老に差し掛かったイギリス人ジャーナリスト、副主人公のパイルは若いアメリカ人の経済顧問団員(実際はCIA要員)である。経済・政治的に没落しつつあるイギリスと第二次大戦後の好景気に隆盛するアメリカの対立、無邪気に自由主義・デモクラシーを標榜するアメリカに対するグリーンの懐疑と皮肉を見て取ることができる。 ヨーロッパ対アメリカの対抗軸以外にも、西洋と東洋、老と若、男と女、共産主義と自由主義、宗教対立など、登場人物ひとりひとりが背景に抱える対立軸を提示することによって、本書は単なるスパイ小説を超えて文学作品として価値あるものとなっている。 パイルの死に暗示されるもの (ネタバレ注意) パイル=若いアメリカ経済顧問団員に対するファウラーの態度は友愛、皮肉、疑念、嫉妬である。実際、パイルをベトミンの手に渡し暗殺したのはファウラー自身であった。 無邪気に自由主義を信じて爆弾テロに手を染めていくパイル。その大義名分の裏にあるアメリカという国家の胡散臭さを暴き出すことによって、グリーンはフランスからベトナムでの実権を奪い取ろうとするアメリカ政府の黒い意図を暴いてみせた。 フランスは小説に描かれている時期の3年後ディエン・ビエン・フーの戦いで大敗を喫し、フランスによるインドシナ植民統治は終わりを告げる。しかしフランスの敗退はベトナムとホーチミンにとっては民族独立の勝利ではなく、アメリカという新しいオーナーが乗り込んできたのに過ぎなかった。ジュネーブ協定によりベトナムは17度線で南北に分断され、アメリカはベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)という泥沼に引き込まれていく。アメリカが完全にベトナムから手を引くまでに、さらに20年以上も戦争にかかわらなければならなかったのである。 グリーンは作家としてアメリカが暗裏に抱く意図を鋭く見破り、アメリカによるベトナム戦争統治と敗退を予言してみせた。 この状況は現在も中東で進行中の状況と全く同じである。戦争には常に勝者も敗者もいない。あるのは傷ついた人民と死のみである。このことをグリーンは言いたかったのではないか。その意味で本書はすぐれた反戦小説であるといえよう。 おとなしいアメリカ人のサイゴンを歩く 本書の序文にも書かれている通り、おとなしいアメリカ人はフィクションであり事実に基づく小説ではない。登場人物もグリーンの創造物である。しかし作中に登場する場所や政治的な背景は事実を反映しており、現在のホーチミン市に残っている場所も多い。 まず最初に訪問したのは1区とビンタン区を結ぶダカオ橋である。この橋はディエン・ビエン・フー通りとディン・ティン・ホアン通りの中間にあるため交通量も両道路に比べれば少ないが、今でも住民には欠かせない生活用道路である。ホーチミン市のマクドナルド1号店を目印にスタートし、裏手を川沿いに歩いて約5分のところにある。以前はこの運河はゴミと悪臭のただよう場所であったが、今では護岸整備されて美しい遊歩道となっている。[/vc_column_text][vc_row_inner][vc_column_inner width=”1/2″][vc_single_image image=”568″ img_size=”400×265″ onclick=”custom_link” img_link_target=”_blank” link=”http://www.picturesfromhistory.com/gallery/CPA0014001-0014500/image/140/Vietnam_Cu_St_Da_Kao_Graham_Greenes_Dakow_Bridge_in_Saigon_now_Ho_Chi_Minh_City_1948″][/vc_column_inner][vc_column_inner width=”1/2″][vc_single_image image=”564″ img_size=”400×265″ img_link_large=”yes”][/vc_column_inner][/vc_row_inner][vc_row_inner][vc_column_inner width=”1/2″][vc_column_text]1948年当時のCầu Sắt Đa Kao(ダカオ鉄橋)。この橋を境にベトミンの支配する危険地区であった。パイルはここで暗殺された。[/vc_column_text][/vc_column_inner][vc_column_inner width=”1/2″][vc_column_text]現在、鉄橋はコンクリート橋に架け替えられている。運河は整備が進み、ホーチミン市民の憩いの場所になっている。[/vc_column_text][/vc_column_inner][/vc_row_inner][vc_column_text]小説ではダカオは昼間は政府軍の配下にあるが、夜間になるとゲートが閉まりベトミンの勢力下に落ちる危険地帯であった。今ではダカオ地区は大使館が軒をつらね、日本人も多く住む高級住宅街である。 ダカオ橋からはタクシーに乗っていっきに中心部に戻ろう。 グレアム・グリーンはコンチネンタルホテルに滞在中は毎日ホテルからカティナ通り(現在のドンコイ通り)をサイゴン大聖堂まで散歩するのが日課であった。 小説の中でグリーンは大聖堂を「悪趣味なピンク色の大聖堂が道をふさいでいるところまで・・・」と表現している。[/vc_column_text][vc_row_inner][vc_column_inner width=”1/2″][vc_single_image image=”588″ img_size=”169 × 265″ alignment=”center” onclick=”custom_link” img_link_target=”_blank” link=”http://www.chairborneranger.com/oldsaigon/oldsaigon13.htm”][/vc_column_inner][vc_column_inner width=”1/2″][vc_single_image image=”586″ img_size=”400×265″ img_link_large=”yes”][/vc_column_inner][/vc_row_inner][vc_row_inner][vc_column_inner width=”1/2″][vc_column_text]1950年代と思われるサイゴン大聖堂。当時も今もその姿は余り変化はない。米軍統治時代はこの広場はJ.F.ケネディ広場と呼ばれた。[/vc_column_text][/vc_column_inner][vc_column_inner width=”1/2″][vc_column_text]ホーチミン市の定番観光スポットである現在のサイゴン大聖堂。連日多くの観光客やウェディング写真を撮影するカップルで賑わっている。[/vc_column_text][/vc_column_inner][/vc_row_inner][vc_column_text]サイゴン大聖堂を背にしてドンコイ通りを下り、すぐ左側、ドンコイ164番地にあるのがフランス統治下の警察・安全統治総局である。暗殺されたパイルはここに運ばれ、地下室の死体安置室でファウラーが本人確認を行った。ブランス人捜査官ヴィゴーの職場であり、フランス統治下では地下室に政治犯が収容され拷問されたという。[/vc_column_text][vc_row_inner][vc_column_inner width=”1/2″][vc_single_image image=”606″ img_size=”400 × 265″ alignment=”center” onclick=”custom_link” img_link_target=”_blank” link=”http://www.chairborneranger.com/oldsaigon/oldsaigon13.htm”][/vc_column_inner][vc_column_inner width=”1/2″][vc_single_image image=”607″ img_size=”400×265″ img_link_large=”yes”][/vc_column_inner][/vc_row_inner][vc_row_inner][vc_column_inner width=”1/2″][vc_column_text]1958年の映画「静かなアメリカ人」でフランス人捜査官ビゴの尋問をうけるファウラー。[/vc_column_text][/vc_column_inner][vc_column_inner width=”1/2″][vc_column_text]ドンコイ通りのスタート地点に建つ旧警察・安全総局。現在は文化・スポーツ・観光省の庁舎として使用されている。[/vc_column_text][/vc_column_inner][/vc_row_inner][vc_column_text]さらにドンコイ通りを下り、ドンコイ通り213番地にはファウラーがフォンと別れた後、ゴム・プランテーションのオーナーから借りたアパートがあった。現在は残念ながら取り壊されて空き地となっている。 そのワン・ブロック下がラムソンスクエアである。 ホーチミン市で観光客に最も有名な場所であり、コンチネンタルホテル、市民劇場、カラベルホテルが広場を囲むように建っている。 この場所は作中でもクライマックスとして使われており、パイルらアメリカ政府の支援を受けたテ将軍の一味がプラスチック爆弾を爆発させる場所である。[/vc_column_text][vc_row_inner][vc_column_inner width=”1/2″][vc_single_image image=”612″ img_size=”400 × 265″ alignment=”center” onclick=”custom_link” img_link_target=”_blank” link=”http://www.chairborneranger.com/oldsaigon/oldsaigon13.htm”][/vc_column_inner][vc_column_inner width=”1/2″][vc_single_image image=”613″ img_size=”400×265″ img_link_large=”yes”][/vc_column_inner][/vc_row_inner][vc_row_inner][vc_column_inner width=”1/2″][vc_column_text]100年程度前に撮影されたと思われるラムソンスクエアに建つオペラハウス(市民劇場)の絵葉書。[/vc_column_text][/vc_column_inner][vc_column_inner width=”1/2″][vc_column_text]現在のラムソンスクエア。映画「愛の落日」ではデジタル合成で爆弾テロシーンが撮影された。[/vc_column_text][/vc_column_inner][/vc_row_inner][vc_row_inner][vc_column_inner width=”1/2″][vc_single_image image=”616″ img_size=”400 × 265″ alignment=”center”][vc_column_text]グリーンが実際に滞在し、本書を執筆したコンチネンタルホテル。作中でも重要な舞台として使われている。[/vc_column_text][/vc_column_inner][vc_column_inner width=”1/2″][vc_single_image image=”617″ img_size=”400×265″ img_link_large=”yes”][vc_column_text]現在のコンチネンタルホテル。ベトナム最古のホテルでもあるため大切に保存されている。広場に面した214号室がグリーンの滞在した部屋である。[/vc_column_text][/vc_column_inner][/vc_row_inner][vc_row_inner][vc_column_inner width=”1/2″][vc_single_image image=”619″ img_size=”400 × 265″ alignment=”center”][vc_column_text]2010年解体工事中のジブラルカフェ。エデンモールの1階にあった。フォンが毎日立ち寄るミルクバーのモデルとなった。[/vc_column_text][/vc_column_inner][vc_column_inner width=”1/2″][vc_single_image image=”621″ img_size=”400×265″ img_link_large=”yes”][vc_column_text]現在はユニオンスクエアという名前でブランドショップが立ち並ぶショッピングセンターになっている。[/vc_column_text][/vc_column_inner][/vc_row_inner][vc_column_text]ドンコイ通りをさらに下ろう。現在のマック・ティ・ブイ通りを右に曲がったところに「オルメイ街のちょっと良いところ(A

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