2019年11月29日 100 Bui Vienでお会いしたのが最後となってしまった

2019年11月29日 100 Bui Vienでお会いしたのが最後となってしまった

今週火曜日のお昼過ぎ、ある方から山元 昭さんが亡くなられたという連絡をいただきました。にわかには信じがたい話で、何かの間違いではないかと思ったのですが、その後、断片的に入ってくる情報で、ご本人が2月6日に亡くなられたことを知りました。
本来であれば今週中には来越されて、週末にはメコンのカイベーにご一緒する予定でいただけに、あまりの突然の話で実感がわきませんでしたが、日がたつにつれてご本人に二度と会えないことへの寂しさと悲しさが募ってきます。

山元さんは私が2008年にベトナムに来てから間もなく知り合った日本人の一人で、ベトナムと日本で波乱万丈の生涯を送られた方です。お話を伺えばベトナムにこんな日本人がいたのかと驚く一方、書籍やネット情報を通してしか知らなかったベトナムの本当の姿を知る生き証人のような方でした。いつ何を聞いてもワクワクドキドキする話ばかりでしたが、このまま忘れ去れていくことは無念なので、ご本人からお聞きした話の一部をご紹介したいと思います。なお、正式の取材をしたわけではなく、私の勘違いもあるかと思いますので、記憶に誤っている点があればご容赦ください。

カイベーのバナナ園

2015年3月14日 カイベーの農園跡にて

山元さんは1963年(昭和38年)、20歳の時にベトナムに来られました。メコンのカイベーにある小さな島に移住してバナナ園を開拓するためです。時はベトナム戦争の真っ只中、カイベーもベトナム政府軍と解放軍が入り乱れた戦場で、昼間はバナナ農園を開拓する一方、夜になると米軍のヘリコプターが爆弾を落とし、川から米軍の機銃掃射を受け、時には、敵対する解放軍が税金徴収のため密かに農園を訪れたりしたそうです。夜たまに、バナナ園のメコンに腰掛けていると、照明弾が花火のように上がって綺麗だったとおっしゃっていました。

写真は5年前に訪れたカイベーの農園跡です。現在は朽ち果てて跡形も無くなっていましたが、50年前、水も電気もない無人の島で、一人の若者が子犬と一緒にここに暮らしていたのかと思うと感無量だったものです。

波乱万丈の人生を送っただけではなく、山元さんはベトナム人にも日本人にも慕われ、愛された方でした。私とは15年以上の年の差があるにもかかわらず、いつも明るく敬意を持って接してくれました。他人のことを悪く言わず、他人に世話をされることも嫌がる方で、まさに清廉恪勤な人物ですが、東京の下町育ちの親しみやすさも兼ね備えた方でした。一冊ずつ丁寧に包装紙でカバーをした文庫本や、きちんとパッキングされた手荷物を見ると、ご本人が几帳面な方だということはすぐに窺えましたが、私たちに対しては気さくに優しく話を聞いてくれる大先輩でした。

本人からお借りしたままの文庫本は形見となってしまいました。

開高健「私の釣魚大全」

エッセー集「私の釣魚大全」は開高健が世界中を訪ねた釣り紀行ですが、ベトナムの章「母なるメコン河でカチョックというへんな魚を一匹釣ること」はむしろ山元さんたちについて書かれた文章です。少々長くなりますが、エッセンスを引用させていただきます:

ゲンちゃん(注1)とブンヨー(注2)のことをごく一部だけ略記しておきたい。ゲンちゃんは東京都出身で二十五歳である。ヴェトナムは通算五年だというから、はじめてきたのは二十歳のときである。ヴェトナム語はヴェトナム人かと怪しまれるくらいにたくみに話せる。彼は高校の同期生のテッちゃんと二人で東京の小さな、小さなバナナ会社の社員としてこの国へやってきた。会社は小さいくせに大志を抱き、メコンの島にバナナをつくって、それを日本にはこび、生産から販売までの一貫作業を一手でやろうとふるいたったのである。葦に蔽われた無人島を開拓して灌漑溝を掘り、洪水防ぎの土壁で島をかこみ、小屋を作り、村を作りしていったこの会社の苦闘を書くだけで一冊の大著ができるだろうと思われる。ゲンちゃんとテッちゃんの二人は元日本兵でヴェトミン兵でもあった古川さんと松島さんに助けられつつ雑草とマラリアと毒ヘビとサソリの無人島をバナナ園に変えたのである。二十歳の青年たちにしてはあっぱれな大業というしかない。ところが、神経質で貪慾、純潔で旺盛、頑固なくせに気まぐれでもある、ねじれにねじれたバナナの木をなだめ、すかして、やっと台湾バナナに匹敵できるだけの名品をつくりだし、あとは日本へ持ってくるばかりとなったところで戦争が激化し、サイゴン港は軍港と化し、雄図はメコンの濁水にとけてしまう。たちまち会社は破産する。社長(といってもまだ三十代だが……)は杉並区の小さな自宅の庭に掘立小屋を建てて旋盤をすえつけ、何やら細ぼそとタイマーの下請けをはじめる。ゲンちゃんとテッちゃんはサイゴンに踏みとどまり、島のバナナをサイゴン市場にはこぶことで最後の一線の確保に必死である。ところが、この三人が三人とも、いや、古川さんと松島さんも入れて五人だが、五人が五人とも、血と汗の結晶を踏みちゃちゃくにされても、会って話をしてみれば、〝挫折〟だの、〝絶望〟だのという蒼白い気配はどこにも見られず、不屈というか、ケロリというか、ニッパ小屋でお茶をすすりつつ、つぎはカンボジャをやってみるかなどといいだすのである。つくづく頭がさがる。河といい、土といい、木といい、すべて具体物と添寝して生きる人はこれほどにも強靭であり、敗北を肯んじないのである。

注1: 山元さん
注2::石川文洋

さすが芥川賞の大作家、私がこのブログで下手な文章を書くよりも、山元さんの人格を的確に書かれています。この文章が書かれたのは50年前のことですが、今でもこの文章に書かれている通り山元さんは澄んで晴れ渡った秋空のような印象を与えてくれる人でした。

山元さんの話には、開高健、石川文洋、近藤紘一、石原慎太郎など、当時、ベトナムに身を投じたジャーナリストや作家が登場し、それだけでも興味深い話が満載でしたが、ベトナムやベトナム人に対する批評もツボを得ていて、深くベトナムとベトナム人を理解している方でした。

2010年5月1日 石川文洋氏と山元さん。 ベトナム戦争終結35周年を記念して、ベトナム政府から招待された石川文洋さんを囲んで。

2010年5月1日 石川文洋氏と山元さん。
ベトナム戦争終結35周年を記念してベトナム政府から招待された石川文洋さんを囲んで。

ゲンちゃんとテッちゃん

古川さんのこと

山元さんと古川さんのご家族

今年も古川さんの命日が近づいてきました。本来であれば、今週末にもカイベーにご一緒するはずだったのですが、それも叶わぬこととなってしまいました。

山元さんは3ヶ月ごとに日本とベトナムを行き来していましたが、ベトナムに戻ってくると必ず古川さんの残された家族をカイベーに訪ねていました。
開高健のエッセーにも書かれている通り、古川さんはカイベーのバナナ園で一緒に働いていた元日本兵ですが、ベトナム戦争終結直前の1975年3月に、何者かによって射殺されてしまいました。
当時、サイゴンに住んでいた山元さんは、日本大使館が誰も確認に動かないことに業を煮やして、大使館の車を自分で運転してカイベーに行き、古川さんの死亡を確認したそうです。サイゴン陥落間際で、当時はミトーに向かうだけでも大変危険であり、大使館員は誰も行きたがらなかったということでした。
ほどなく、サイゴン陥落。4月30日、現在の統一会堂の前に立っていると、Nguyen Du通りの動物園あたりから北の戦車が近づいてきて、これから何が起こるかとドキドキしながら見ていたら、戦車の上に乗っかっている北の兵士は子供のような若い男の子で拍子抜けしたということでした。
山元さんもベトナム人の奥さんと子供を連れて数ヶ月後に日本に帰国され、その後長くベトナムに戻ることはできませんでした。

当時、幼かった古川さんの日系二世の子供たちは今でもカイベーやドンナイで暮らしておられ、山元さんは数ヶ月に一度、手土産を持ってカイベーやドンナイを訪ねておられました。
こんなところにも山元さんの律儀な性格が表れていて、私なら何十年も前に雇っていた社員の家族の面倒を見るなどとても考えられません。

山元さんは心の中に生き続ける

人の一生の中でこれはという人物に出会うことは本当に稀です。
ベトナムでの生活に疲れた時、もしかしたら山元さんに会えるのではないかと、普段行きつけにしていたBui Vienの店をふらっと訪ねてみたこともありましたが、もうお会いすることもないと思うと、ぽっかりと風穴が空いてしまったような悲しい気持ちになります。
と同時に、ある日突然いなくなってしまったことに、はにかみ屋だった山元さんらしい退場だなと苦笑する気持ちもあります。
いつか山元さんにもっと詳しくベトナム戦争時代の日本人やサイゴンについて話を聞いてまとめておきたいと考えていましたが、それも叶わぬこととなってしまいました。

10年前とは比較にならないほど、ベトナムに在住する日本人も増え、日系会社や飲食店も増えましたが、50年以上、人生の大半をベトナムと関わり、ベトナム人に愛された日本人がいたことを知っていただくだけでも、少しは気持ちが慰められます。
一人の人間の死など関係ないといわんばかりに、日常は残酷なほどいつも通りに過ぎ去っていきますが、これからの人生をどう生きていくべきなのかを考えさせられる日々です。

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