【私の聖書】序文

これまで私は古典から現代哲学までさまざまな書籍を読んだり、般若心経をはじめとする仏典を学習したり、デリー大学で文化人類学とカースト制を研究したり、折に触れて人が生きるということはどういう意味があるのか、自分はどう生きるべきかということについて思いをはせてきた。

今でもパソコンの中には雑多な文献やQuotation(引用)をZettelkastenメソッド 1 で保存し、自分自身が執筆した発表、未発表文章の断片を保存してる。

これまで私はさまざまな先達の言葉に救いを求めてきたが、人生の後半に差しかかっているにもかかわらず自分自身が救われることは全くなかった。

トルストイは50歳をこえて書いた「懺悔」の中で

私の行く手に待ち構えているあの避け難い死によって滅せられない悠久の意義が、私の生活にあるだろうか?

と語り、

人生は無意味であると結論づけるしかなかった

と述べている。彼は82歳になった年、死の直前に家出をした直後肺炎にかかり、ロシアの小さな駅の官舎で寂しく亡くなっている。

新旧約聖書も、仏典も、コーランも、あらゆる宗教は既に人々を救う力を失っている。科学技術の急速な発展に伴い、量子力学レベルの知能を身につけた人類にとって、実態のない神を無邪気に信じることなどは到底無理な話である。

もはや救いを神や書籍など自分の外部に期待することは徒労であり、自分を救うためには各人が自分自身の内奥に救いを求めるしかない。そして各人が自分自身の救いを自分自身の言葉で語るしかない。現代に生きるということはそれだけ難しいことなのだと理解している。

「私の聖書」はそのような意図のもと、私自身が私自身を救うために書いた聖書である。私以外の他人に何かを教えたり救おうなどという意図は毛頭なく、読む人にとっては全く意味をなさないものであるかもしれない。しかし多くの人が私と同じような悩みや問題を抱えて生きているだろうということは容易に想像がつく。

このように一般に公開をしているのだから読んでいただくのは全く問題はないが、うのみにすることはお薦めをしない。ぜひあなた自身の聖なる言葉をあなた自身のためにつむぎ出していただきたいと願っている。

また以上のような理由から一切の批判や批評もお断りする。ご自分の理念や信念と違っているからという理由で、他者を批判する権利は私たちには与えられていない。私の文章が不快であるならば、Twitterの設定でミュートかフォロー解除を行っていただければと思う。ふーん、そういう考え方もあるのだなという程度で収めていただければ幸いである。


  1. 「Zettel」がメモ、「kasten」が箱を意味しており、ドイツの社会学者ニクラス・ルーマンが生み出した文書管理方法 ↩︎